「言いたくないことは言わなくていいから、嘘だけはつかないで・・・」

 私が親しくしてる人に時折お願いすることです。
 私は小学生の頃、親友だと思っていた相手に裏切られてから、人間恐怖症になりました。自分が相手にどう思われるか過剰に意識し、嫌われることを怖れてきました。相手の表情や態度から、その気持ちを推し量る能力に対する自信を喪失し、本当はそばにいちゃいけないんじゃないか、嫌がられてるんじゃないか、義理や社交辞令で誘われてるんじゃないかと疑心暗鬼に陥りました。
 常に付きまとう不安と疑心、緊張で、誰からも距離を置くようになり、また置かれるようになりました。
 通学するバスで知り合いに会い、隣の席を勧められても辞退するほどに・・・

 それがもとで私は言葉を重んじるようになり、相手の言葉をそのまま受けとめるように努力して、人間関係を作るようになりました。
 ですから、嘘に対して神経質です。自分も極力使わないし、相手にも使って欲しくない。
 それは私にとって人間関係の拠り所だからです。

 私は人間関係においてほとんどの場合受身であり、消極的です。
 話しかけられたことに応え、求められたことに応じる、そういうあり方で「ここにいてもいいんだ」という心の拠り所を求め、支えているからです。
 普段友達と集まったときや、チャットなどでも、人数が多くなったり、会話が弾んでいたりすると、口数が減り、流れに任せて眺める人になりがちです。それは友達が楽しそうにしている傍にいられることがうれしく、弾んでいる会話の流れを壊す事を恐れるためです。
 ま、これはいい訳かもしれませんけれど。

「嘘も方便」という言葉があります。しかしこれは、真実に導くための一時的な措置としての嘘です。事実でないことで、自分に有利な状況を作ろうとしたり、他人を貶めたり、そういう嘘を正当化することに用いていい言葉ではないと思います。

 嘘や演技によって、相手の立場や心情を傷つけないようにするということは、たしかにあるでしょう。しかし、それは同時に、その事実に相手は耐えられない、受けとめられないと評価しているということ、あるいは、その事実を相手に突きつけるのが、自分であるという事を避けるということでもあります。
 たとえその時その場でどれだけ傷つくとしても、最初から事実を知らされる方が、後から知らされたり、嘘が破綻してわからされるよりも、いいと思っています。

私も、これまでにたくさんの嘘をついてきました、それで相手を悲しませたり、傷つけたりしてきました。
それはあるときは保身のためであったり、あるときはただのずるさであったり、見栄であったり、相手を思って(少なくともそのつもりの)ことであったり、状況は色々です。
しかしそれらは、いつも私にとって後悔の沼でありつづけるでしょう。
何らかの形でそのつけは払わねばならないでしょう。
それらは必ずや、返す刃となって、私の身に帰ってくることでしょう。
私は、なにより自分自身のために、嘘によって利益を求めたり、一時的な逃げを打ったりということをしないように、胸に銘じ、努力していこうと思います。


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