連帯責任
17歳という世代が、ジャーナリズムの中で取りざたされている。
幾人かの罪を犯した人間の共通項が、その年齢だったからという理由で、、、
日本に限っても、何万人といるはずのうちの、ほんの一握りの人間をとりあげて、全体を判断しようとする。レッテルを貼ろうとする。。。
それは、未知なる物、わからないこと、理解できないことへの恐怖がそうさせるのかもしれない。
単に話題性を求めるワイドショウの番組作りを差し引いてなお、わからないこと、理解できないことへの恐怖感が、その根底にあると感じる。
ほんの一握りの現象を捉えて、類似性を持つ全体を判断しようとする。
それで、わかったつもりになって安心しようとする。
それはけっしていいことではない。
ひとくくりにされる側にとっては、実に洒落にならないことである。
縮図ではあるが、私の参加した行のさなかにも、そういう事例があった。
正座しているべき読経の間に、あぐらをかいている者がいた・・・
そういう報告があったという理由で、私たちは罰を食らった。
名乗り出なさいという、監督官のよびかけに応じるはずもなく、「全員に責任をとらせる」という言葉も功を奏さず、結局全員で罰を受けることとなり、そのために貴重な昼休みはつぶされた、、、。
私も、立場上、余計なことで問題をこじらせて、下山をくらうわけにはいかなかったので、ささやかな抗議をするにとどまらざるをえなかったが、これは多くの参加者にとって、そして私にとって、不満の残る処置であったと思う。
ある、わかりやすい事例をもって、全体を判断し、全体に責任を負わせようとする、、、
それは教育に携わるものが、つい身をゆだねがちな、楽な解決策であると思う。
しかし、それは教育の敗北であり、責任を負わされる側にしてみれば、実に迷惑な、教育の、教育者の、敗北に他ならない。
まず第一に、そのような横着、手抜きは、現場を抑えなければ意味がないということ、、
そして、密告に頼る管理は、被管理者にとって非常に陰湿な、暗い印象を与え、同じ立場のはずの同志への疑心暗鬼と、管理者への不満を抱くだけだということ。監督官は、異議を唱えた私に対し、同入和合海を根拠に、連帯責任を正当化したが、密告を奨励する(認める)時点で、その精神は歪んでいることをわかってもらえなかった。
教えるということ、導くということの難しさを再認識するともに、言いたいことを我慢することのつらさ(笑)もあらためて味合わされた。
しかし、言うまでもなく人間というのは実に多様性を持った生物である。
同じ年齢であること、似たような境遇jに育ったことが、同一の属性を持つと判断されては実に迷惑であり、また「偏見」と称されかねないほどの危うさを秘めている。
個人の多様性、、、その、端から見れば当然とも思える差異に、目が届かなくなることが、教育に携わる人間にとって、そして子どもに関わる人間にとって、課題とされるべきことであるだろう。