東下りと八橋
 在原業平が主人公と目される『伊勢物語』の中に、「東下り」と呼ばれる段がある。この「東下り」は正史には見えず史実と見なすことはできないが、多くの研究家によって事実と認めるか否かが問題となっている。その「東下り」で、主人公の男は「三河の国、八橋」を通り、そこで歌を詠んだ。この物語の本文に八橋の説明がある。
三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛 手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。
この説明で一応理解することはできるけれども、古来、歌学者や国学者の間では様々な解釈がなされてきたのである。そこで、多く問題とされている八橋の橋の数と、蜘蛛手の解釈について考えてみることにする。
 まず、橋の数については、八つとするものと八つには限らないとするものとに分けられる。釈契沖の書いた『勢語臆断』には、
ものの多かるかずを、やつと云は常の事なれば、八つにはかぎらで、橋のおほかるを八橋と云にやと、云説もあれど、まことに八渡せるにこそ、名も高くきこえ侍れ
とある。これに因ると、橋が八つあってこそ八橋とするとされている。また、荷田春満の『伊勢物語童子問』には、
地名に八つ橋といふは、橋八つわたせるによりてこそ名つけつれ、八つには限るへからすといふ説とりかたし。此所の八つは八ツに限て、七つにても九つにても、有へからす
とある。
これらに対し、橋が必ずしも八つには限らないとするものは沢山ある。まず、源俊頼の書いた『俊頼髄脳』には、「あしをぎのおひたる道のかしければ、ただ板をさだめたる事もなく所々に打渡したるなり。」それがあまた所うちわたしたればやつはしといひはじめたるなり。物の数は必ずしもやつなけれども、いひよきにつきて八橋とはよみけるにや。」とある。又、北村季吟の『伊勢物語拾穂抄』には、「八つにはかぎるべからず。水ゆく河がたてよこなるに、あなたこなたへかけたるをいふなるべし。かくいふなるべし。」とある。」これらの他、宗祇購・牡丹花肖柏聞書の『伊勢物語肖聞抄』・斎藤彦麿の『勢語圖説抄』・高宮環中の『伊勢物語審註』・三条西実隆の『伊勢物語直解』・『伊勢物語嬰児抄』・『伊勢物語愚案鈔』などに記されている。これらには、物の数が多いときに「八」を使うので、八橋には橋が八つあるとは限らないと記されている場合がほとんどである。
 次に蜘蛛手の解釈であるが、大きく三通りに分けることができる。まず第一に、蜘蛛の手と解釈するものである。一条兼良の『伊勢物語愚見抄』には、「今の世にはわくのやうなる物三斗有。むかしは八ありけんかし。蛛の手は八有物なれば。くもてとはいへるにや。」とある。この他、『伊勢物語肖聞抄』・『伊勢物語惟清抄』・『伊勢物語拾穂抄』・『勢語臆断』や賀茂真淵の『伊勢物語古意』で、蜘蛛の手と解釈している。第二に、組み手のことと解釈するものである。『俊頼髄脳』には、
くもでといへるは、はしのしたに弱くてよろぼひたふれもぞするとて、柱をたよりにて木をすぢかへてうちたるをいふなり。
とあり、橋を強くするために添え木を斜めに打ってあることから「組み手」と解釈しているのである。この他、顕照の『袖中抄』・屋代弘賢の『参考伊勢物語』、『伊勢物語難語考』・藤原範兼の『和歌童蒙抄』・伴蒿蹊の『閑田耕筆』などで、組み手と解釈している。第三に、曲手のことと解釈するものである。小山田与清の『十六夜日記残月抄』に、
伊勢物語の眞名本に水ゆく川のくもでを水堰河之蜘手と書てみづゐてかはのくもでとよめり蜘手は借字にて隈處の義也伊勢の雲津も川の隈處より出し名也
とある様に、川が曲がって岸に入り込んでいると解釈している。
 以上のように「八橋」と「蜘蛛手」に関しては様々な解釈がなされている。これを統計的に見ると、橋は八つに限らず沢山あり、川は蜘蛛の手のようにあちこちに流れていたということが一般的に考えられていたことになる。そして、このように多くの書物に「八橋」と「蜘蛛手」のことが問題とされていたのは、その名に特異性があったからに他ならないと考えられるのである。
 それでは、何故「八橋」と呼ばれるようになったかその由来を調べてみると、江戸時代に説話的に書かれた『八橋略縁記杜若由来』というものに記載がある。これによると、夫を失った妻が川で二人の子供を亡くし、子供の菩提を弔い八つの違い橋をかけたとある。そして、村人はこの橋の数から「八橋」と名付けたのである。この話がいつ頃発生したのかはっきりしないが、この話によって八橋に対する人々の印象を一層深いものとしたことは確かである。
 このような特徴を秘めながら、八橋は時の流れと共にその姿を変えてきたのである。『伊勢物語』によって人々に知られるところとなった八橋は、どのように移り変わってきたのであろうか。その変遷を探ってみることにより、『伊勢物語』の中の八橋の姿が浮かび上がってくるのではないであろうか。そこで、まず『更級日記』の記述である。菅原孝標の女は、寛仁4年父が上総の国より上洛する際に伴われて海道を上った。その時八橋を通ったのである。日記には「八橋は名のみにして、橋の方もなく何の見所もなし。」と記されている。もしも、業平が「東下り」をしたとするなら貞観4年頃とされているが、この孝標の女が八橋を通ったのは、それから約60年後のことである。この頃には、既に橋の形がなかったのである。そして、『俊頼髄脳』には「橋をたづぬれば、河なんどにわたせるはしにはあらず。あしをぎのおひたる道のあしければ、ただ板をさだめたる事もなく所々に打渡したるなり。」とある。これに因ると、橋は川にあるのではなく、沼か湿地に簡単に板が渡されていた事が伺われる。これは、『更級日記』より更に100年あまり後のことである。
 鎌倉時代になると、ます『海道記』に記されている。これは、貞応2年頃に書かれたもので、『俊頼髄脳』より更に100余年後のことである。これによると、八橋が復興した如く次のように書かれている。「雉鯉鮒が馬場をすぎて数里の野原を分くれば、一両の橋を名づけて八橋といふ。(中略)橋も同じ橋なれども、いくたび造りかへつらむ。」。しかし、『海道記』はその作者も鴨長明という説と源光行という説があり、また、机上で書かれた書物ではないかという説も出てくるくらいに不明瞭な点が多く、この場合実際の八橋の情景が描かれていたか否かは疑問である。これより20年後の仁治3年に源親行が書いた『東関紀行』には、「在原の業平、かきつばたの歌よみたりけるに、みな人、かれいひの上に涙おとしける所よと思ひ出でられて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稲のみぞ多く見ゆる。」と記されている。これは秋の下向で、稲が見えたことから八橋一帯は水田となっていたことと考えられる。また、阿仏尼が作者と目されている『うたたねの記』に八橋のことが記されている。
つづく