「夜に還る」


<act 1>


 ふらふらと闇の中を歩く。
身体の感覚が曖昧で現実感がない。
不安で心が引き裂かれそうだった。
 突然痛みが全身を襲い喉の奥から絞り出すような声をあげたがそれもすぐに終わり、また浮遊感が身体を支配した。
 ここはどこなのだろう。
そんな疑問が頭をよぎるがすぐに消える。もうそんなことはどうでもよくなっていた。
今さらそれを知ったところでどうにかなるわけではない。
 足元を見つめる。本当に自分はこの場所に立っているのだろうか。まるで幻のように感じる感覚は
いったい何なのだろう。
この世界は夢なのだと、
そういわれても何の違和感もなく納得してしまうぐらいに現実感が希薄だった。
________________________ 違う
むしろ希薄なのは自分の存在だった。
闇が支配する世界の中で、今にも消え入りそうとはいえ自分だけが生命の輝きを持っていた。
オレが確かに生きているという証。
 だがそれは何と違和感を覚えることだろう。
間違いなく、自分が異端だということを認識させられる。  ふと歩みが止まる。目を細めて俯くと月明かりに照らされた金髪が表情を隠した。
涙が頬を伝う。視界がぼやけて前が見えない。
矜持などとうの昔に放棄していたはずの心が屈辱を噛みしめて泣いていた。
________________________ ざわり
 空気が揺れる音がした。
慌てて顔をあげると視界に人影を捕らえた。消えていたはずの希望が灯る。
彼のはずがないと頭の隅で理解していたが、もしかしたらという思いがぬぐえない。
「‥‥‥っ!」
自分では大声を上げたつもりだったが声にはならず、掠れた音がしただけだった。
体力はとっくに限界を越えていたが、夢中で彼の名を呼びながら駆け寄った。
だがそこには他の場所と等しく闇があっただけで、人の姿は見えず、彼の気配もなかった。
「っ‥‥たいっ‥‥」
 彼の名を呼びながらその場に座り込み涙をながす。
何度泣いたのだろう。数える気力もない。その名を呼ぶことすら、すでに苦痛になっていた。
________________________ 会いたい
それだけを思った。
だがそれはもう叶うことなのない願いだった。
絶望に心が震えた。




「ヤマト」
 呼ばれて振り返ると太一に腕をつかまれた。
「今日一緒に帰ろう」
当たり前の様に言われて苦笑する。
「悪い、今日は用事があるんだ」
腕をつかんでいた手をそっと振りほどいて答える。太一はきょとんとした表情を浮かべた。
断られるなんて考えもしなかったのだろう。今までそんなことは一度としてなかったのだから。
「用があるならしょうがないか‥‥‥」
残念そうに言う太一に心の隅で詫びる。
「じゃあな」
簡単に声を掛けてその場から離れた。
そのまま廊下を歩いて太一の姿が見えないところまで来ると、近くの壁によりかかった。
表情は変わらなかっただろうか。
動揺は悟られなかっただろうか。
________________________ こんな苦しみはもうたくさんだ




 水の冷たさが微かに残っていた現実感を引き寄せた。
透明度の低い湖の中に座り込む。湖といっても深さはそんなにない。
大きな水溜まりのような感じだった。
ゆっくりと目を閉じる。夜の闇を全身に受け、今までにないほど心が安らいだ。
 はじめからこうしていればよかったのだ。
逃げ出そうと足掻いて傷ついて、そんなことはするだけ無駄だったというのに。
「‥‥‥‥‥」
 最後に一度だけ聞き取れるか聞き取れないかというほどの声で彼の名を呼ぶ。
あれほど辛くて、それでも足掻いていたのは彼がいたからだった。
今でも思う。彼のいる場所が自分の一番大切な場所だった。
________________________ 好きだった
 もう、そんなことは二度と思わないだろうけど、自分は彼のことが好きだった。
信じてはもらえないかもしれないが確かに想いはあった。
 腕を伸ばして世界を受け入れる。
夜が侵食していく感触に小さくうめいた。
思っていたよりもずっと大きなショックが襲ってきた。どこにそんな気力が残っていたのだろう、身体中が拒絶をおこす。呼吸が荒くなり、身体全体が軋む音がした。
心が無くなってゆく感覚にたまらず悲鳴を上げた。
 闇に尾を引いた声は一度だけ世界を揺らしたが、すぐに夜と同化し消えていった。




 ゆっくり瞳を開く。
自分を形成していた何かが消えていた。
残っているのは以前は自分であったモノだけだった。
心も身体もすでに自分のものではなかった。大切なものはすべて失くなっていた。
まるで死んでいるようだった。実際、それは今の自分の状態と大差ないような気がした。
 その場から立ち上がり、再び歩きだす。
だが今度は以前のような違和感は覚えなかった。すでに自分は完全にこの世界の一部となっていた。
 笑みが零れる。
今の自分を見たら彼はどう思うだろうか。
だが、すでにその考えに何の動揺もなかった。被虐的な精神だけがそこにあった。
今なら、彼を目の前にしても何の想いもわかないという確信がある。





世界が壊れる音がした。