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<act 7>


 ひどく疲れていることを自覚していた。
心も身体も信じられないほど消耗しきっていた。 こんな苦しみはもう味わうことはないと思っていたが それが淡い期待だったことを思い知らされた。
________________________ 苦しい
 血が滲むほどきつく胸を掻きむしる。
耐え難い苦痛が全身を支配した。それはここに来た頃の自分が感じていたものと同じで、 その事実に愕然とした。捨ててきたはずのものがまだ自分に残っていることが信じられなかった。
 激情のまま近くの木に傷ついた右手を叩き付ける。 痛みが腕を媒介にして全身に伝わり、頭の芯まで響いた。
「‥‥‥っあ」
涙が頬を伝う。声を漏らしそうになり慌てて口を塞いだ。 真っ暗な闇の中で自分の鳴咽だけが尾をひく。
________________________ 痛い
 心が痛んだ。何度も考えて、その度に痛みが反復した。 そんなのにはもう耐えられない。 だから、そのためにここに来たはずなのにそれがさらに自分を追いつめる結果となっていた。
 手から伝わる痛みがせめてもの救いだった。 身体が感じる苦痛は悲鳴を上げる心の負担を少しだけ軽くすることができた。 性質として持っている本能だけが精神の綻びを一時的に埋めることが出来るのだ。
________________________ でも、分かっているよ
分かっている。そんなのは一時凌ぎでしかないということを。
まるで小さな子どもにでも戻った気分だった。 泣き叫びながら誰かれかまわず周りの者にすがりついてしまいそうだ。
 荒い息をつきながら横になる。視界に入るのは闇だけだった。 他には何も映らない。側にいたはずの彼も、弟もどこにもいなかった。 今の自分は完全に孤独だった。
________________________
 久しく彼の名前を呼ぶと、少しだけ何かを取り戻せたような気がした。
だが、それがどれほど望みのないことかというのも分かっていた。 一度侵食されてしまった心は容易に取り戻すことなど出来ない。 絶え間が無く聞こえる声が夜を呼び寄せる。
 誰もそれに逆らうことなど出来はしないのだ。




 ガタンと音を立ててヤマトは机を倒した。そのまま手近な机を手当たり次第に倒していく。 日が落ちた夜の学校を月明かりだけが照らし、 その中で狂ったように手に触れるものすべてを壊していった。
 窓枠を見ると夜と自分の間に透明なガラスがはまっていた。
薄い、そこにあることすら感じさせない、だが確実に外界とを隔てている窓。
 ふと昔のことを思い出す。
何かの拍子に迷い込んできた鳥がそこに窓があることを知らずに何度もぶつかっている光景だった。
 ヤマトにとってそれは今でも鮮明に思い出せるほど印象的な事だった。
どうしてその時、自分は窓を開けてやらなかったのだろう。 どうして誰もその鳥を助けてやれなかったのだろう。
 傷ついた手を振り上げてガラスに打ち付ける。
何度も何度もそれを繰り返してやっとヒビを入れるとすでに自分の手は血だらけだった。 開いた傷口から溢れ出した血がどくどくと音を立てて腕の方にまで流れ落ちる。 制服が徐々に血で染まる様を眺めていた。
________________________ まだ足りないよ
 そうだな、確かにそうだ。
もっと傷つかなければならない、もっと傷ついて、もっと‥‥‥もっと ________________________
「何やってんだ!」
 ふいに血だらけの腕を誰かに捕まれる。
________________________ 誰か?
知っていたはずの声に記憶の糸を手繰り寄せる。
________________________ 誰だよ、おまえ」
瞬間、太一の瞳が驚愕で揺れる。
________________________ 太一
そうだ、それが彼の名前だった。忘れるはずがない名前だ。
誰を忘れても彼のことだけは忘れない、自分にとって彼はそういう存在だったはずだ。
「‥‥‥‥冗談だ。そんなこと信じるなよ」
 今ではすっかり手慣れた冷笑を浮かべて答えると太一の顔にさっと赤みが差した。
同じようなことをタケルにも言ったことを思い出す。 似た反応を返す彼らに笑いが止まらなかった。
「なあ太一、罪って何だと思う?」
突然何を言い出すのかと太一が眉をひそめたが、構わずに言葉を続ける。
「世の中の倫理に反したこと、それとも人を傷つけること?確かにそうだよな。 でもそれだけじゃない、それだけじゃないんだよ」
揺れる心とは裏腹に言葉だけは淡々と口をついて出る。
「だってもしそれだけだというなら気付かないでいることは罪ではないんだろう。 何もしないでいることは罪にはならないんだろう。でも、そいつが正しくて、 その『正しい』ってことで誰かが苦しんでるとしたらそれは罪じゃないっていうのか? 何もしていなかったらすべてが許されるって?‥‥‥‥違うね、それだって罪だ。 何故なら「想い」も何かを伴なうからだ。それが愛とかそういうキレイなものならいいさ、 でも人が思う感情ってのはそんなものばかりじゃない。もっと俗っぽくて汚いものだってある。 むしろそっちの方が多いくらいだ。なのに ________________________ それに気付かないのは罪じゃないのか?」
 ちくりと胸が痛んだ。言っても無駄なことだと分かってるのに止められない。 動揺で揺れる太一の瞳に切なさが込み上げてきた。手が震えている。
「そうやって考えてもラチがあかないよ。だってそんな風に思ってるのはオレだけなんだ。 だから理解なんてされない。それが嫌だって言ってるんじゃない。 そんなのはしょうがないことだって分かってる。でもな、辛いんだよ。 もう終わりにしたいんだ‥‥‥」
 腕の力が弱まった。太一を掴み上げるようにして持っていた腕が弛む。 そのまま崩れ落ちそうになったが太一に支えられた。
「何言ってんのか分かんねえよ‥‥‥」
________________________ そうだろうな、お前には」
 心が冷えてゆく。

かき乱された精神だけがそこに残っていた。




 彼の声を聞いた。
そして言葉の持つ意味に小さくうめいた。
泣きそうだった。

嘘だ
理解されなくてもいいなんて嘘だ。
本当にそう思っている人間は誰にも何も言わない。何も言わずに自分だけで処理するものだから。
________________________ だからね
 オレは本当は理解してほしいんだ。 それがどれほど身勝手でちっぽけなものであっても理解してほしいんだよ。
分かっていると言って欲しい。間違っていないと言って欲しい。
もう大丈夫だよ、と言って欲しいんだ。
 身勝手だね、本当に身勝手だ。
分かっている。でも仕方がないだろう。 一度拒絶されることを知ってしまったら恐ろしくてもう二度と同じことなんてできやしない。 だって側にいって何かをして、そしてまた拒絶されてしまったらどうすればいいのだろう。 今でもこんなに苦しいのにそんなことになったらどうなってしまうんだろう。
________________________ 羨ましいよ
 自分はもうずっと昔からそうやって行動できる人間が羨ましかった。 自分の思ったことを言葉にできる人を、拒絶される恐怖を乗り切って向こう側に行ける人を。 その先に待っているものがたとえ何であれ、 そういう種類の人間は立ち向かっていくことが出来るのだから。
 でもそれは勇気のいることだ
だからずっと自分は羨ましかった。そんな強さが欲しかった。
自分の弱さを棚に上げて羨ましがってるんだ。
 そんな自分を責めるのだろうか。それとも、もっと強くならなければと諭すのだろうか。
ああ、でもね。確かに自分はそんな弱い人間だ。でも、その代償は払っているんだよ。
________________________ この死にそうな程の後悔がそうだ
 辛いよ、苦しいよ。
でも堪えるしかない。自分で何とかするしかない。
 きっと簡単な事なんだろう。ほんの少し勇気を出せば乗り切れることに違いない。
でも出来ないんだ。
________________________ 出来ないんだ‥‥‥





 穴だらけの心に何かが入ってくる。
それは以前感じたものと同じ種類のものだった。
 もう駄目なのかもしれない。諦めるしかないのかもしれない。
彼が脳裏に浮かんだ。自分とは全く違う性質を持つ彼が。
本当にこれが最後だと思った。だから殆ど声の出ない掠れた音でつぶやいた。





________________________ 助けて」





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