<act 6>
心にあったのは圧倒的な恐怖。
死という可能性を考えないわけではなかったが、それが現実的のものとして襲ってきたのは
初めてだった。ゆっくりと彼が手にする凶器の軌跡を視線で追う。逃げなければと思う反面、
身体が硬直したように動かない。
「
________________________ さようなら」
それは今までに聞いた声の中ではどれよりも幸せそうな響きを含んでいた。
本能的な生への渇望が全身を支配して、やっと身体が自由を取り戻す。
だが、遅い。
絶望する片隅で、このまま死んだら自分は幸せだろうかという思いが頭を掠める。
反射的に瞳を固く閉じてすぐに訪れるだろう痛みに備えた。
「な‥‥んでっ!」
驚愕する声はナイフを持つ少年が発した言葉だった。
何が起こったのか理解するより早く、頬に生温かい雫がぽたりと数滴落ちた。
その生々しい感覚に思わず頬に手をやり、おそるおそる目を開ける。
視線に入ったのは予想通り真紅の液体だったが不思議と痛みはなかった。
手に付いた生命の感触だけが状況との関連性を示唆し、
思考と相反する現実に不信の種を植え付けた。視線を上に向け、その理由を悟る。
これは現実だろうか?
同じ色を持つ兄弟が対峙している。
一人は驚きと懐疑の表情を浮かべて。
もう一人は何の表情も見せずに。
時が止まったかのように硬直して動かない弟に対して兄は動揺の欠片もなく
氷結された瞳のまま自分の手を見つめていた。
血で濡れた右手には先ほど弟の手にあったナイフが深々と突き刺さっていたが、
その表情は相変わらず何の変化も見せない。
まるで痛みなど微塵も感じていないかのようだった。
________________________ ザクッ
左手でナイフを掴み、ためらいなく引き抜く。
血が大量に溢れ出し、座り込んでいた自分に飛び散る。
動かなければと思う心とは裏腹に、ぞっとするほど生気のない表情に魅入られてその光景を夢のように見つめていた。
「‥‥あっ‥‥お兄ちゃん‥‥‥‥」
掠れた声はいっそ哀れに感じるほどだった。
ガタガタと小刻みに震えて自分のしたことに苦悩を見せる姿は、
先ほどまで酷薄な表情で自分を痛めつけていた少年とはまるで別人だった。
ゆっくりと自分の手を眺めていた兄が視線を弟の上に乗せ、傷ついた手で弟の頬をなでる。
無表情だった顔がやっとみせた表情は怒りでも苦痛でもなく哀れみを込めた微笑だった。
「
________________________ 少し眠るといい」
次の瞬間、まるで何かに操られるかのように弟の身体が弛緩した。
はっきりと感情を浮かべていた瞳が徐々に白濁とした色になり、その場に崩れ落ちる。
完全に意識を失う直前に何か呟いたのが分かったが、その声は自分には聞こえなかった。
だが彼が何を言ったのかは容易に想像がつく。
きっと誰より愛しい者の名を呼んだのだろう。許しを乞うようにその名を囁いたに違いない。
しかし、その言葉は兄には届いていないだろう。
放課後の教室に一人残っている姿を見つけた時には心臓が止まりそうなほど驚いた。
ただ黙って夕日を全身に浴びながら氷のように冷たい表情をしているヤマトは近寄りがたく、
声を掛けることも出来ない。何か言わなくてはと思いながら結局何も出来ず入り口に立ち尽くしていた。
「‥‥‥いたのか、太一」
振り返ることもせずに無造作にかけられた言葉にビクリとする。
「‥‥ああ」
答えた声はどこかぎこちなかった。居心地の悪さを感じたが、それはどうしようもない。
自分が彼にしようとしたことを考えれば当然だった。
ヤマトの後姿が自分を責めているようだ。
罪悪感に打ちのめされながら両の手を見る。
もしあの時、もう少し力を込めていたら。そう考えると根底から揺さぶられるような寒気に襲われた。
「何か用でもあるのか」
ゆっくりと夕日を背に振り返ったその姿は驚くほど秀麗だったが、
まったくといっていいほど感情が欠落していた。金色に近い髪が
赤い色を帯び、燃えるような印象を受ける。
太一はふとそれが本来のヤマトだったと思い出した。
たしかに彼の本質はそうであったはずだ。
クールを装いながらも誰より激しい気性を持っていたはずではないか。
「
________________________ ヤマト」
自分で発した声が浸透するまでに時間がかかった。
視線を合わせたままゆっくりとヤマトの方へ歩いていき、頬に手をあてる。
外気に晒されてひんやりとした体温が指を介して伝わる感触を、自分も、
そしておそらくヤマトもそれが日常であるかのように受け止めていた。
こうして触れるのは何日ぶりだろう。視線がお互いを曝け出すように交錯する。
その後の行為は自然だった。優しく宥めるように唇を重ねる。
徐々に力の抜けるヤマトの身体を片手で支え、床に組み敷いた。
唇を離すとヤマトが小さく吐息を漏らす。
抵抗があると思ったが、何もなかった。
制服のボタンを外していく間もされるがままに虚ろな瞳でだまって天井を眺めているだけだった。
「っ‥‥‥」
互いの手を絡めると、それまで無反応だったヤマトが微かに苦痛の声を漏らした。
見るとそこには幾重にも包帯が巻かれており、うっすらと血が滲んでいる。
「どうしたんだよ、これ」
「別に‥‥‥何でもない」
どう見ても「何でもない」ようには見えなかったが、
一片の動揺もなく言われて太一は押し黙った。
見慣れた蒼い双眸は太一を映していたが、その内面に自分の色はまったく届かない。
静謐を保つ瞳は外界から与えられるどんな刺激にもまったく反応を示さなかった。
それはたぶん、何も共有しないことで得られる種類のものだ。
人が感じる「感情」という名の刺激を一人で抱える人間だけが宿すことのできる色。
だが、それは何て果てしない闇を伴なう行為なのだろう。
彼が感じる苦痛はどれほどのものなのだろうか。太一にとってそれは想像すら出来ないことだった。
そんなものは自分には無関係の世界でのことだったから。
だがヤマトはそれをやろうとしている。
たった一人で闇を背負って‥‥‥‥
________________________ でもそんなことは
耐えられないだろう。ヤマトだけじゃない。どれほど強い人間だって無理に決まっている。
途中であきらめて、何もかもどうでもよくなる時が必ず訪れる。
その時彼はどうするのだろう。自分の限界を知って諦めるのだろうか、
それとも足掻こうとするのだろうか。傷ついてなお最後まで貫き通そうとするのだろうか。
________________________ そうやって疲弊した魂はいったいどうなってしまうのだろう
最後に残るものは彼にとってすべてを犠牲にしてまで得る価値のあるものだろうか。
つながったままの身体を抱きしめると、自分の背に廻された腕に微かに力がこもった。
じっと眉をよせて身体を苛む感覚に耐えている姿は残酷さを伴なった支配欲を呼び覚ます。
________________________ ずっと、こうしたかった
たとえ心のつながりがなく、ただ自分の欲望だけを満たす行為だとしても。
得ることの出来ない安らぎの代わりに刹那の快楽を手に入れることが出来るなら、
それがどれほど空虚なものだとしても欲しかった。
何度も繰り返し名を呼びながら想いを遂げる。途中で彼が何度か意識を手放したが、かまわず抱いた。
白磁を思わせる肌に痕を残し自分の証を与える。
その度に切なげに吐息を漏らす姿は扇情的でさらに行為を強引なものにさせた。
声を出す気力もなくした相手を乱暴に自分の元に引き寄せると無抵抗な身体が倒れ込むようにしてもたれかかる。
そうして疲労を見せる姿ですら妖艶さが漂い、引き寄せられるように唇を重ねた。
呼吸もままならない程何度も味わう。苦しそうにしている姿を見てさらに嗜虐的な気分が起こり、
限界まで追いつめた。彼が再び意識を手放そうとする直前にやっと呼吸を許す。
大きく肩で息をしている様に満足感が広がった。
________________________ でも
苦しい。どれほど苦しめても、逆に苦しくなるのはいつも自分だった。
すべてを諦めるような彼と、すべてを諦めきれない自分では求めるものが違う。
なのに彼に惹かれるのだ。こんなにも心をかき乱されながらも離れる事が出来ない。
だが、それは自分だけのことかもしれない。
「何を考えてるんだ‥‥‥」
答えはないと分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
今の彼は完全に支配者だった。
この場所、どこかも分からない夜の場所を誰よりも熟知していた。
そして自らの望み通りの結末を得るために最大限に利用していた。
自分も彼の兄弟も、ただの役者にすぎない。
この場所で真にシナリオを描けるのは彼だけだった。
________________________ だとしたら
いったい彼は何を望んでいるのだろう。矛盾に満ちた行動は彼の真意を知るには複雑すぎた。
「どうしてオレを助けた?」
そこだけは触れずにいた傷ついた右手を取る。
まだ止まらない血液が数滴乾いた地面に吸い込まれるようにして消えてゆく。
零れ落ちる真紅の液体を舐めると
口の中に血の味が広がった。
彼を構成している一部分も逃さないように滲み出るすべての血をすくいとった。
「理由なんてない‥‥」
腕の中で聞こえた声が諦観を含んでいるように聞こえた。
それはまるで告解のようだった