止める間もなかった。
気付いた時にはシリウスはすでに長い直方体のスタンドの上から何の躊躇いもなく身を躍らせ、
その数秒後には苦もなく地面に足をつけていた。
直前まで「何でたまの休みにクィディッチの試合観戦なんか」と
ぼやいていた人物にしては素早い反応だったので、
やっぱり何だかんだ言いつつ試合を見ていたんじゃないかと意外に冷静な頭の片隅で
リーマスは考えた。
彼が円形の試合場を走り出した頃には、
ようやく周りも何が起こったのかを知りざわめき始めた。
リーマスは彼ほどではないにせよ幾分早く事態を飲み込めていたので
観戦席の隅に立てかけてあった箒を素早く掴むと、その上に跨り地を蹴った。
一瞬。ほんの一瞬だったが、リーマスは箒のコントロールを失う錯覚に陥った。
両手でしっかりと握る柄の部分がガクリと崩れ落ち、地面に叩き付けられる。
月に一度訪れる宵闇の残滓の傷跡を隠すために、ようやく肩口まで伸ばした髪が
無造作に地面にばら撒かれ、同時に意識が混濁する。
体は地に伏せられたまま死んだように動かない。
しかし、それはただの錯覚でしかなかった。リーマスの箒は主導権を
しっかりとリーマス自身に委ねていたし、それを放棄する素振りも見せなかった。
結構な高さのスタンドから下を覗いたリーマスは、脳裏を過ぎったばかりの幻影に
ゴクリと一度唾を飲んだ。
しっかりしろ、今のはただの錯覚だ。地面に叩きつけられたのは自分じゃない。
もちろん、だからこそリーマスの心はそんな錯覚を見てしまう程に神経質になっていると言えた。
眼下にぐったりと身を横たえて今スタンドから飛び降りたばかりのシリウスに
抱き起こされている人物は、彼の何よりも大切な友人の一人であるジェームズだった。
「嫌だ。嫌だっ、絶対嫌だ!」
恥外聞もなく涙声で喚くジェームズっていうのも珍しいなぁと、
リーマスは彼の横になっているベッドの隣で話に口を挟む風でもなく
じっとそんな彼を眺めていた。校医のマダム・ポンフリーは呆れた口調で
何度も1週間は絶対安静にという事を、あんな高さから落下した事を考えれば
信じられないほど軽い怪我だったのだからそのぐらいは我慢なさいという説教と共に繰り返した。
リーマスも同感だと思ったが、反面、片時もじっとしていないジェームズが
1週間も箒を握る事を禁止されて黙っているはずもないとも思った。
双方とも自分の意見を譲らないのでさっきから延々と「絶対安静」「嫌だ」というセリフの
繰り返しが続いていた。
互いに飽きもせずに _____________________ もしかしたらマダム・
ポンフリーの方は飽きているのかもしれないが‥‥ _____________________ 言葉の
応酬を続けている様子を見ていたリーマスだったが、
もうそれは彼にとってはあまり関心のある出来事ではなかった。
それよりもさっきからジェームズの隣で _____________________ 自分とは反対側のベッドの淵で
_____________________ イライラとしながら珍しく何も言わないシリウスの方に注意は向けられていた。
普段の彼ならこんな場合に黙っている事はあまりない。鬱陶しいほど口を出し、
結局ジェームズと口論になることが多いというのに。
その沈黙は心地よいものではなく、不安がじりじりと
胸のうちから湧き上がってくるのをリーマスは止めることができなかった。
「ジェームズ、いいかげんになさいっ!」
怪我人相手だから、という理由で宥めるような口調だったマダム・
ポンフリーが痺れを切らしたように怒鳴った。しかし、ジェームズは全く意に介さず
怒気を孕んだ視線で彼女を睨みつける。
「嫌だって言ったら嫌なんだ、絶対、い‥‥」
ふと、今まで彼らのやり取りを無言で聞いていたシリウスが立ち上がり、
ジェームズの背後から枕をするりと抜き取ると有無を言わさず顔面に押し当てて
ベッドへと押さえつけた。当然押さえつけられた方は息が出来ずに枕の下でじたばたともがいている。
「‥‥後はオレが何とかしますから」
押し殺した声でシリウスが言うとマダム・ポンフリーはそうですか、
と彼女にしてはあっさりと引き下がった。リーマスの見立てによると
半分は呆れも混じっていたのだと思う。
では私は仕事へ戻りますからね、とドアを開けて彼女が去った後も
シリウスは押さえつけた手を放そうとはしなかったので、
リーマスはやれやれとシリウスに視線を向けた。
「そろそろ放さないとジェームズ死んじゃうよ?」
「 _____________________ こんな人騒がせなヤツ、死んでしまえばよかったんだっ!」
自棄になって叫んだシリウスは押さえつけていた手にぐいっと力を込めた。
枕の下ではぐえっ、と押しつぶされた蛙のような声 _____________________
以前セブルスが実験で使ったカエルをジェームズが遊び半分でぎゅうぎゅう
潰していたのを聞いた事がある _____________________
を出していたジェームズがパタリと両手をシーツの上に落として動かなくなった。
でもね、今回ばかりは同情できないよ、とリーマスは心の中でジェームズに詫びた。
シリウスが怒るのも当然だもの、と肩を竦めると軽くため息をついた。
基本的に、シリウス・ブラックという人間はジェームズ・ポッターに甘く出来ていた。
それはやはり惚れた弱みという事もあったが、彼がまだジェームズに友情しか感じていなかった
時にも似たようなものだったので
今一つそれが原因かどうかはシリウスにも確信が持てないでいる。
とにかく、彼がジェームズに甘いのは、
本人も周りも認めるところだったが、同時に彼が
人一倍短気な激情家である事も周知の事実だった。
ジェームズが箒のバランスを崩した時 _____________________ まったく、
いつかは必ずこんな事態が起きるに違いないと思っていた、
とシリウスは何度も愚痴った _____________________ 真っ先に駆けつけて力の入らない体を抱き起こした時、
頭から冷水を浴びせかけられたような気分になった事を彼は知っているのだろうか?
ジェームズ、と狂ったように名を呼び、普段は信じもしない神に彼を助けてくれと
懇願した事を知っているのだろうか?
ああ、なのに‥‥。
ジェームズときたら目を覚ましてからのセリフが
「どうして試合を続けさえてくれないんだ!」に始まる悪口雑言。
見かねて助け舟を出したマダム・ポンフリーにも食って掛かる始末。
_____________________ しっかりしろ、シリウス。オマエは本当にこのオトコが好きなのか?!
と、自問自答したくなるのも詮無いと、シリウスは辟易しながら考えた。
だから、怒りに任せて _____________________ もっとも今回は止める気もなかったのだが
_____________________ ジェームズを窒息させた時も、ああすっとした、
という以外の感情は湧かなかったし、同様に隣で一部始終を眺めていた
リーマスも止めもせずに傍観に徹していただけだった。
「どうするの?」
肩で息をしながらようやく枕を放したシリウスは丁度自分の反対側から
こちらを眺めているリーマスと視線を合わせた。
「‥‥とりあえず部屋へ連れていく」
また起きたら暴れだすのは目に見えているから縛り付けてやろうかと呟くと、
リーマスは僕は何も聞かなかった、と言ってフイっと横を向いた。
体の下に手を差し入れて上半身を抱き起こす。
先刻と同じく力の入らない体がシリウスに促されるまま体を預け、
癖のある黒髪がばさりと項垂れた顔にかかった。
「 _____________________ 」
それでも‥‥、とシリウスは腕の中にある人物を見た。
反射的に抱き寄せて髪に顔を埋める。
体温も、脈も、鼓動も何もかも以前と同じである様を見て安堵する。
「大した怪我じゃなくてよかったね」
リーマスが小さく笑った。
「ああ、本当に‥‥」
声が震えるのを指摘されなかったのは、シリウスにとっては幸いな事だった。
ジェームズ・ポッターが箒から落ちて怪我をした、という事実は瞬く間に学校中に広まった。
箒から人が落ちることなど日常茶飯事な競技だというのに、
これほどの驚きを伴って噂になるのは、それがいかに珍しいことであるか
の証拠だとも言えた。
しかし、当の本人にとってそんな事は何の慰めにもならなかった。
だいたいジェームズにしてみれば数箇所の骨折や裂傷など怪我のうちにも入らないし、
ちょっとぐらい頭を打ったところでどうにかなるほどヤワな鍛え方はしていない。
だから魔法で簡単に怪我を治して(この点ではマダム・ポンフリーにはとても感謝している)
さっさと復帰しようと目論んでいたのだが、その案はあっさり却下された。
一週間は安静だって?冗談じゃない。そんな悠長な事などやってられるか!
焦る内心とは裏腹に、まだ幾許か残っていた彼の冷静な部分は慎重に行動を起こす
時期を検討していた。なにせ今回ばかりは相当やりにくい事態になっている事を彼自身も
認めざるを得なかった。
ギシリとベッドを揺らして起き上がる。
「どこへ行くつもりだ?」
間髪いれずに行動に目を光らせた相手に向かってムッとした表情で睨みつける。
「本を取るんだよ、暇だからねっ!」
不機嫌さを隠そうともしない声で返すと、シリウスは無言でジェームズをベッドへと押し返し、
かわりに手近な本を無造作に投げてよこした。どうも、と投げやりに返事を返し、
本をバラバラとめくる。もちろん内容なんて頭に入っては来ない。
横目で覗いた相手は自身も手近な本に目を落とし、時間を潰している。
そんなに暇ならどっかへ遊びに行ってしまえばいいのにと思ったが、そんな気配は全くない。
昨日からずっと飽きもせずに四六時中ジェームズに張り付いて見張っている姿に、
まったく感心なヤツだよキミは!
と皮肉を込めながら舌打ちした。
シリウスはしばらく監視の手を緩めるつもりはないらしい。
きっと5日後のクィディッチの試合に自分が出るつもりだと思っているのだろう。
そして、それはまさしくその通りだった。
今回負ければグリフィンドールの負けは決定だというのに!
1位以外は認めない、と公言して憚らない _____________________
そしてまたそれを忠実に実行している _____________________
ジェームズにとって首位争奪戦から脱落するのは耐えられない事だった。
そしてシリウスはその事をよく知っているのだった。
ジェームズにとってシリウスというのは大変気の合う仲間であると同時に、
かなりやっかいな相手でもあった。なにせ、彼は自分の考え方や行動を
かなり正確に把握しているのだから、その裏を掻くのは容易ではない。
それに、とジェームズは思う。シリウスは何というか‥‥、予想がつかないところがあった。
特にカッとした時には何をするか分からない。昔、何が原因だったのかは忘れたが
彼を不用意に怒らせた時など、自分が許しを乞う台詞を口にするまでひどく
無慈悲に押さえつけられた事もあった。(しかし、今冷静に考えればそれはかなり
ヒドイことなのではないだろうか?)
出来ればそういう事態は避けたい、と思うのは当然の事だろう。
それに、と開いた本の間から自分の隣で椅子に腰掛けたままじっと動かないシリウスを見る。
普段よりも険しい表情のまま自分から離れようとしない彼に、気付かれないように嘆息した。
ジェームズだってそれが自分を心配しての行動だというのは分かっていた。
感情に絡め取られて身動きが取れないのは、何もシリウスに限った事ではないのだった。
「見に行きたいんだ」
ポツリと呟いたセリフを耳ざとく聞きとがめたシリウスは「何を?」と問い返した。
「クィディッチの練習」
返ってきた答えはいつものふざけた口調でなく、無意識に哀願するような響きだった。
当然駄目だと言おうとしたシリウスだったが、常にはない彼の調子に一瞬戸惑った。
それが演技などではないと分かっているからこそ、何かしら彼の琴線に触れる部分もあった。
しばらくの沈黙の後、ジェームズの持っていた本を _____________________
彼がそれを読んでいない事は知っていたので _____________________
ひょいっと取り上げるとクローゼットから自分と彼の分のローブを取り出した。
「 _____________________ 分かったよ」
連れてくから、と言うとジェームズが久しぶりに屈託なく笑った。
眩しそうに太陽を仰ぐジェームズの横顔をちらりと見たシリウスは
彼の視線を追って空へと意識を向けた。そこには彼のチームメイト達が
練習用の箒を片手に大空を自在に飛び回っていた。何人もの選手志願の中から選ばれただけあって
さすがに誰もが箒の扱いに長けている。
しかし、とシリウスは思う。確かに彼らは選手として素晴らしい資質を持っているが、
その中の誰一人としてジェームズには敵わないだろう、と。
贔屓目を差し引いてなお、ジェームズが空を翔る姿は自然だった。
だから、シリウスも彼が箒を持てない事を嘆く気持ちは理解できた。
見に行きたいと頼まれて嫌とは言えない理由もそんなところだった。
しかし断りきれずに連れてきてしまったけれど、本当は止めるべきだったのかもしれない。
先ほどから一言も喋らずに黙っている彼にシリウスは奇妙な居心地の悪さを感じていた。
辛いのかと聞くほど無神経ではなかったが、だからといって何も言わないでいるほど
大人ではなかった。何か適当な言葉を捜しながら再びジェームズへと視線を向けたシリウスは
彼の頬を伝う涙に目を奪われた。
「ジェームズ‥‥」
手を伸ばして肩に触れても、普段は決して見せない表情に耐え切れず引き寄せ掻き抱いても、
ジェームズは空から視線を外そうとはしなかった。
「ジェームズ」
もう一度名を呼び、頬に手をかけ強引に振り向かせて視線を合わせる。
しばらく焦点を合わせずに彷徨っていた視線がようやくシリウスと交差した。
「 _____________________ 僕もあそこへ行きたい」
涙がポロリと瞳から落ちて、雫の痕を拭っていたシリウスの手を濡らした。
「行きたいんだ‥‥」
一度流れ出した後は堰をきったように際限なく溢れ出る涙に、
シリウスの胸中に罪悪感が広がった。小さな嗚咽が漏れ、その度に体が震える。
こんな風に彼が泣くのを見るのは初めてだった。 飛びたい、と。ただそれだけを望み、
それが叶えられないことにただ純粋に悲しみの涙を流している彼を見るのは‥‥。
しょうがないだろう、まだ完治したわけじゃないんだ。ジェームズのためなんだからと
自分に言い聞かせるが、涙を拭った手の冷たさは
後ろめたさを隠したままではいさせてくれなかった。
結局、理屈ではないのだ。どんな正論も彼が泣いている事に比べれば大した意味を持たない。
「なぁ、オレに出来る事ならなんでもするから」
だから泣くなよ、と困ったように腕の中の癖のある髪を撫でる。
普段は生意気で泣かせてやりたいと思う事もしばしばだったが、
実際にこうして泣かれるとどうしていいのか分からない。
宥めるように口付けを落とすと、ジェームズが小さく「シリウス」と名を呼んだ。
「何?」
「頼みがあるんだ‥‥」
幾分真剣な口調だったのでシリウスは試合の事だと思い、
まだ怪我が治っていないからと諭すように繰り返したが、ジェームズは違うと否定した。
だったら何?と促すとまだ涙の残る瞳を今度はしっかりと合わせてきた。
こんな時でも、ジェームズはまっすぐに前を見るのだとシリウスは感心しながら、
いつもその瞳に見つめられる時に思うのと同じような満足感を味わった。
今なら何を言われても唯々諾々と従ってしまいそうな気がする。
きっとジェームズはそれを知っているのだ。
しかし、そういう、心を自分以外の誰かにいともあっさり引き渡してしまう事を
シリウスは恐れているわけではなかった。
ただし相手が彼であるのならという条件付きではあったが。
そういった、ある側面では致命的になりかねない面を持っているにもかかわらず、
陶酔感を伴った、自己を投げ出す行為を止める事は出来なかった。
もちろん、それが原因で後になって苦労する事を知らないわけではないのだ。
感情というのは自身には決して思い通りにならない、そういう性質を持っているものだと、
シリウスはおぼろげながら理解しているのだった。
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