反射的に背後へ飛び退いた瞬間、ジェームズは自分の誤りを悟った。
足払いを避けるために高く跳躍したのもいけなかった。
マズイ、と焦りながら右手に握り締めた剣を地面に突いて体勢を整えようとするが、
足が地面を踏みしめるのにバランスを崩してたたらを踏んだ。
失敗と言うにはあまりにもささやかな動きにより遅れた時間はごくわずかなものだった。
しかし対峙した相手にとってはそれで十分だった。
中腰の姿勢から再び剣を引き抜いて構えるより早く、流れるような動作で首筋に鋭い剣の切っ先が
突きつけられた。ピタリと隙なく当てられた刃にゴクリと一度大きく喉を鳴らす。
こうなっては小指の先ほどの身動きも出来ない。相手に叩き込もうとして握り締めた剣から
力を抜くと、知らないうちに手のひらがじっとりと汗で滲んでいた。
殺されるかもしれない、とジェームズは一瞬本気でそんな幻想に陥った。
目の前にあるのはところどころ錆びているとはいえ、まぎれもなく本物の剣で、
それを少しでも横に引けば自分の喉はたいした苦もなく引き裂かれるだろう。
決して飾りではない本物の、殺傷能力を持った剣。
それの持つ威圧感を今さらながらに実感した。
ふいに彼の体の奥深く、普段は意識もしないような場所から訴えかけるような声が響いてきた。
心臓の鼓動が邪魔になるほど耳につき、全身が警戒をしろと抗いがたいほどの感覚で
ジェームズに命令をする。
その感覚は一般的には「本能」と呼ばれるものだった。
熱く、激しく警鐘を鳴らすそれはジェームズにとっては聞きなれたものだったが、
それでもここしばらくは感じていない種類の感覚だった。殺される、
などと考えたのはそのせいでもあった。理性とは別の部分で働く防衛手段は、
今ではジェームズの意思とは無関係なところで常に動いているものだった。
それは彼がどれほど安心しきっている時でも一時だって休まることはなかった。
ジェームズ自身がそうである事を自覚したのは最近のことだった。
それまでは自分にそんな形を潜めた、どちらかと言えば暗く、
陰湿で抜け目の無いものがあることを知りもしなかった。
本能は普段は知覚することすらなかったが、一度こうして呼び覚まされると
あらゆる感覚を乱暴に押しのけて自らの内面を支配した。
だから、どれほどジェームズが理性で殺されるわけがないと理解していたにせよ、
緊張が緩むことはなかった。
その時、背後から緊迫した空気とは対照的で場違いな拍手が聞こえてきた。
ぱちぱちと手を叩くその音に加えて「珍しいね。ジェームズの負け」という暢気な声が響く。
どこかずれた声の主をリーマスだと意識した途端、ジェームズは自分の半径数メートルより
外にある世界の存在を数分ぶりに知覚することが出来た。視界に入っていたはずなのに
今までは見えなかった外界がいささかの不自然さを持って現れる。
遠い風景を描いた絵を見るように思っていた木々が突然命を吹き込まれたようだった。
目を覚ましたばかりで荒れ狂うように内面を支配していた感覚が再び緩やかに
自分の奥深くへと眠りについた。何度か名残を惜しみ、繰り返すさざ波のように揺れながら、
それでも次第に遠く深くジェームズの内側へと身を沈め、
そしてやがて自身では判別のつかないほど奥へと潜り込んで完全に沈黙した。
もっともそれは一見そうであるというだけで、完全に眠らせたわけではない。
それでも、もういい、安心していいという理性の説得に目こぼしをくれるような傲慢さで
奥へと沈んだ感覚に、ジェームズは心底ほっとしたのだった。
完全にその感覚をやり過ごした後、ジェームズは未だに首元に突きつけられた刃のせいで
微動だにできない体のまま、唯一自由に動かせる視線だけを目の前の剣に向ける。
古びた剣は実践では使い物になるかどうか不明だが、練習にはうってつけの代物だった。
_________________ 練習?
違う、試合だ。とジェームズは凍結していた記憶を解凍しはじめる。
そして視線を剣から柄へと移し、それを握り締める手を見た。見慣れた手だとジェームズは思った。
普段は剣などではなく杖を握るその手。自分に触れる優しい、時には乱暴にもなる彼の手。
そこからゆっくり腕へと視線だけを移し、次に彼の顔を見る。
背後にある太陽のせいで表情は見えないが、かわりに輪郭ははっきりとわかった。
勝負はついたのだと示すように、首筋に当てられた剣が下がり、
緊張していた体がようやく弛緩する。思わず手で切っ先の触れていた部分を触った。
その部分から感じていたちくちくとした痛みに、傷でもついているのではないだろうかと思ったが、
予想に反して何もなかった。だとすれば痛みは自身の幻想だったのかと考え、
そんな不確かなものにあっさりと感覚器官を乗っ取られた自身に苛立つようにジェームズは
軽く舌打ちした。苦々しい表情をしていたのは、だから負けたという事よりももっと
内面的な失態に対する憤りだったが、相手はそうは思わなかったらしい。顔を上げると、
彼はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべながらジェームズを見下ろしていた。
「オレの勝ち」
常にない得意気な表情でシリウスが剣を下ろす。
乱れた黒髪を無造作に後ろへ払いのけると彼のライトブルーの瞳が誇らしげに輝いた。
数時間後、シリウス・ブラックは、いつになく楽しげに廊下を歩いていた。
左手にはバケツ、右手にはモップというあまり彼には似合わない姿に、
彼とすれ違った生徒は怪訝そうな視線を向けた。しかし同時に彼のとても穏やかとは言えない
性質を思い出し「ああ、また何か悪戯をやらかして罰をくらったんだろう」と考え、
さらに一拍ほど遅れて「それにしてはやけに嬉しそうだな」と疑問にも思うのだった。
周囲の見立て通り、シリウスは機嫌がよかった。真剣を勝手に持ち出した事が見つかり
マクゴナガル先生に派手に怒鳴られたり、その罰として倉庫の掃除を言いつけられたりと
割と散々な目にあってなお、彼の機嫌は悪くなるということがなかった。
ジェームズに勝つというのは彼にとっては珍しい事だった。
シリウス自身、他人より秀でた能力を持っていることは自覚していたし、
それは幾分真実でもあったが、ジェームズはそんな彼より先を歩いているのが常だった。
彼に備わっていたのは、不世出の才能と、持ちえた能力を引き出すための努力という名の
後天的な資質で、それに追いつくのは、ほとんど奇跡に近い偶然を手に入れたとしても
至難の業だった。
ジェームズには勝てない、などと諦めていたわけではない。
シリウス自身負けず嫌いな性質だったし、実際に何度か彼を負かしたこともある。
しかし今回のように余力を残したままで彼に膝をつかせたのは初めてだった。
真剣で試合がしたい、と言い出したのはジェームズだった。
シリウスはまた何を唐突にと思ったが、彼が手にしている本を見て納得した。
それは古風な英雄奇談で、意外に文学的なものを好むジェームズが感化されたのは一目瞭然だった。
だが、突然剣を持ち出すとはまた物騒な話だ。
「えぇと‥‥剣がないんだけど?」
そういう問題だろうかと自身で首を捻りながら言った言葉にジェームズは事も無げに
じゃあ持ってくるしかないねと答えて彼がよく見せるニヤリとした意地の悪い笑みを浮かべた。
どこから、とは明言しなかったがそれが持ち出し禁止の札のかかっている倉庫の中から
持ってこいと言われているのは分かった。もちろん倉庫には頑丈な施錠の呪文が掛けてあったが、
開錠の方法はとっくの昔にマスターしていた。
持ってこい、とジェームズが無言の圧力を加える。嫌だと拒絶することも出来たが、
シリウスはあっさりと彼の意に従った。その理由の大半を占めたのが、
しばらく触っていない剣に触れてみたいというシリウスの個人的な理由からだった。
長い刀身が風を切る音や、刃を交えた時にはっきりと手に残る痺れるような感覚。
幼い頃に必要だからと初めは強制的に習わされたそれを、シリウスは今でも鮮明に
思い出すことが出来た。そういう、教育という名で記憶にないほど幼い時分から
繰り返し受けてきた訓練は、今でも彼の内に密かに根付いているのだった。
もともと好きで受けた訓練ではない。しかし一度習いだすと、
これがなかなか面白くてシリウスは定められた時間をよく延長して剣を振るったものだった。
たしなみ程度に身につけていればいいと周りは思っていたが、シリウスはそんな周囲の思惑を
全く無視して、くたくたになるまで練習をするのが常だった。
魔法を勉強し始めてからはそれも少なくなったな、
とシリウスは幼い日の事をぼんやりと思い出していた。
魔法は剣と違って一見不可能に見える事象でも容易く実現させることが出来、
バリエーションも比べ物にもならない程豊富だった。
まだ今よりずっと子供だった自分はそんな表面的な利便のよさに心をくすぐられ、
すぐに新しい事柄へと興味を移してしまった。
それが悪いというわけではないんだろうけど。
たまには昔を思い出してみるのも悪くはない、とジェームズの言葉で懐かしい気分を味わった
シリウスは、さっそく倉庫へと足を運んだのだった。
シリウスは自覚をしていなかったが、彼はこと剣術に関してはかなりの腕前だった。
習えば習っただけ吸収した技術は、何年も使われてはいないとはいえ、
そう簡単に忘れたりするものではない。倉庫の隅に立てかけてあった剣を手にした時に、
ふいに当時の感覚が蘇ったのも、まだ彼の腕が充分通用するという証拠だった。
昔使っていたものよりは大きく、ずっしりと重みのある剣は、
しかし何故か初めて持つものとは思えないほどシリウスの手によく馴染んだ。
まだ自分にはこれを扱う資格があるとシリウスは思った。もしかしたら勝てるかもしれない、
という考えが脳裏をよぎったのはその時だった。だが、相手はあのジェームズ・ポッターだ。
才能を飼い慣らす事に長けた天才に本当に自分の腕が通用するのかと問われれば、
正直それほど自信があるわけでもなかった。
しかしその予想は自分でも意外に思うほどあっさりと外れた。
決してジェームズが弱いわけではないという事はシリウスも分かっていた。
剣を構える姿も隙がなかったし、クィディッチで日夜鍛えている運動神経も彼に有利に働いていた。
ジェームズの致命傷になったのは、剣を握るのは今回が初めてだったというその一点だけだった。
はじめに剣を交えた瞬間にそれは知れた。そしてこれは本当に勝てるのかもしれないと
思った。事実、その通りになった。
だから、シリウスが久しく忘れていた勝利の快楽に身を浸すのもある意味では
しょうがないと言えるのかもしれなかった。
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