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作成日 25/5/2021
平針街道・・・「高岡町誌」「ふる里若林第80号、第96号」[狸山百年誌」より
東海道の矢作橋を過ぎたあたりの宇頭から北西に分かれ若林ー堤ー春木を経て天白区平針に続く道が昔の平針街道(距離は約21キロ)である。さまざまな呼び名があり「往還」「新街道」「岡崎街道」「駿河街道」「宮道(ミヤミチ)」とも呼ばれた。
この平針街道は、慶長17(1612)年家康の命により名古屋城への近道としてつくられたものである。
この街道のお陰で若林などは急速に開拓が進み、各街道と交わる所は交通の要所として発展してきた。昔は道の両側に松並木が続いていたが、戦争で造船に木が必要となり伐採され三好町明知にその面影が一部見られる。右図は、昭和30年頃の平針街道の写真である(「ふる里若林第80号」より)。
昔、平針街道に築かれた一里塚(名古屋城-名古屋CBC-八事本町-平針−祐福寺-明知-堤-若林)が、若林(若林東町新屋敷交差点の陸橋西側)にもあった。現在その面影はないが、三州八郡地理之図(元禄14年)に書かれており、また江戸末期と思われる若林古絵図(下が北)にも逢妻男川(絵図には逢妻川と書かれている)と交差している平針街道に「一里塚」と書かれている。見たことのある人の話では、街道を挟んで一対の松が植えられていたという。一般に榎の割合が多いが、その地域で多く植わっている木を使ったことから、若林では松が使われたと思われる。また、絵図右下には「宮(八幡宮)」と「若林郷」の文字が読み取れる。
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