
魂のインド 唯物論 仏教 仏教の実存 ジャイナ教
六派哲学 二大宗教化
21世紀は人類が新しい時代に向かう転換期にあると考えられています。それは人間主義の時代が終わり人類は自己を見失って混沌の中に投げ込まれているということであり、と同時に、人類の新たな自己探求が始まったことを意味します。現在は唯物論が支配している時代ですが、最先端においては唯心論的東洋思想との合流が始まっているとパラダイム論者はいいます。そこで東洋思想の流れを振り返ってみたいと思います。まずは東洋思想の源流であるインドにそれを見てみたいと思います。
インドは単に東洋思想の源流というより、モンゴロイド、オーストロイド(モンゴロイド亜種)、コーカソイド、あるいはネグロイドなど、世界のあらゆる民族の流入地であり、世界精神のヘソともいうべきものだと考えることもできます。従ってここには人類思想の、すべての原型があるのではないでしょうか。

基本的に人類の思想は観念論的立場と唯物論的立場との葛藤の歴史です。原始的霊的時代過ぎて大宗教思想時代においても、大衆にとって、宗教の天国・極楽や地獄も基本的には霊的世界だといっていいでしょうが、いわば未分化の状態です。思想ということが芽生える前、古代においては、目に見えないものも目に見えるものも未分化な、いわば霊の時代だったのです。古代には呪術的祭司階級による神王が支配者でした。しかし、紀元前5,6世紀には祭司階級の腐敗堕落が目に余るようになり、人類の精神的発達もあり、様々なアンチテーゼ的思想が生まれました。そこに初めて唯物論的考えと唯神論的考え、そして唯心論的な考え方が生まれたのでした。ただ、その時代では唯物論的考えはあまりにも時代の霊的精神とかけ離れていたのでのでほとんど支持する人はいなかったようでした。しかし、初めて人類が目に見える現実を確かに認識したことの証です。 唯神論は霊的世界観の延長ですが、唯物論は自立的な自我の明らかな芽生えだといえるでしょう。一般的に、現代は多くの人が唯物論的立場に立ちます。思想とは人の物事に対する考え方、見方だといえます。それがどのような論理的装いをしていたとしても、本質はその人の魂のあり方からの現象でしょう。
主に参考にしたのは東洋思想の碩学中村元によるマーダヴァの「全哲学綱要」の翻訳解説書「インドの哲学体系」です。そしてインターネット上も参照して、リンクしてみました。魂のあり方をみるのを目的とした、自分流の翻案もした解説ですから、原著者や、翻訳した中村博士の意と違うことが多々あると思いますが、大意には外れていないだろうと思っています。また、その論理は原始的なものですから、その当時のインド人のものの考え方を知る材料にはなるでしょうが、論理自体には興味がないのでとばし読みしました。著者、原著者の意をもっと正確に知りたい方は原著を読んでください。ただし「全哲学綱要」に書かれている論争における各宗派の思想は、マーダヴァの解釈でしょうから、必ずしも正しいものといえないかもしれません。
正直言って一つの民族の言葉には魂の深く、民族的(歴史的、文化的)無意識から来る理念や観念、魂の霊的経験、計り知れない複雑なものがあって、他民族が容易に近寄れない深みがあるものです。それに肉薄するには言葉ではなく心が大事というものでしょう。心、この不確かなもの、、、それでも心を頼りに肉薄するしかありません!
まず、反バラモン的思想から始めましょう。その代表的なのが唯物論と仏教、そしてジャイナ教です。
