実存主義
 宗教的世界観を厳しく批判したのが実存主義者でした。そこで、実存主義と対比して宗教的実存を見てみます。

 実存という言葉は実存主義思想から来ています。しかし、実存という言葉で人が抱くイメージは様々です。英語で言えば existence ですが、その意味は「実在、実存、生存、生活、万物、実体」と辞書にはあります。 日本の哲学学者はそれを「真実にして現実なる人間存在」と解釈しているようです。しかし、ラテン語由来の語源的にも、語から受ける印象からも、見えない何かが、何かから外に現れたもの、というのが本来の意味でしょう。始原的には見えない神霊的なものの現象でしょう。しかし、唯物論的には原子と物質原理からの発生でしす。実存とはけっきょく目に見えるこの世界のすべてということであり、「exist 実存する」とはその世界に「生きる」ということです。人間にとって実存の問題とは「人間はいかに生きるべきか」になり、とりもなおさず「自己」とは何かという問題です。

 思想的人間にとって「自己」とは何か、生きることの真実とは何かという問題は古く、釈迦や老子、孔子の時代、プラトン・ソクラテスの時代からあります。ただ、彼らのほとんどは何か真実なるもの、本質なるものがあって、この世界は偽物、偽りの物、くだらない、あるいは神から与えられた試練のようなものであり、「自己」はそれを超克するべきものと考えていました。
 ソクラテス・プラトンは「汝自身を知れ」と言いました。しかしそれはアポロンの神の神託から始めたのでした。つまり超越的実在や本質的なものを前提とし、「自己」はそれを獲得するべきものと限定されていました。 老子、孔子の思想もまず始めに天の理あり、道ありきでした。

 彼らの思想はいわば有神論的実存ともいえますが、「自己」自身への思索ではありませんでしたから、実存主義者とはいえません。実存主義とは「自己自身」を問題にする姿勢のことを言います。キルケゴールは神への信仰を前提にしていましたが有神論的実存主義者といわれます。それは彼の思索が神についてではなく自己自身の心にあったからでしょう。ヤスパースもこの類といえます。「寄る辺なき自己」の、心の状態や働きの結果として神への信仰に至ということでしょう。

 「実存は本質に先立つ」と言ったサルトルに代表される現代実存主義の思想とは、無神論的実存主義といわれます。「人間、いかに生きるべきか」という問題を、あらゆる前提から離れ(といっても唯物論的世界観に寄っているのですが)、人間自身、寄る辺なき自己から始めようという思想です。
唯物論者も実存主義者とはいえないでしょう。唯物的原理(いわば唯物神信仰)に寄る辺を持っているのはともかく、「自己自身」への考察がないからです。

仏教は人間の心の働きについて様々な考察を試みているようですが、「自己」とは無自性無実体の『無』であるという前提の上に立ちます。もともと釈迦は人間の苦しみの源を探していたのですが、それを「心の働き」だと結論したのです。心の働きすなわち『意識』を寂滅させることが解脱の道と悟ったのでした。したがって「自己自身」の考察はされません。


有神論的実存主義とは、人間の心、自己の働きが必然的に神にいたるのだといいます。
無神論的実存主義者は人間の心の働きによって世界は革新し、進化するといいたいのです。

しかし、本当に「寄る辺なき自己」から語るなら、あらゆる前提を排除して、純粋の自己自身から始めるべきでしょう。純粋の自己自身とは意識と無意識、意識対象、心すなわち『意識』です。『意識』を知ることから始めるのが真の実存主義というべきでしょう。
実存において問題になるのは「自由な主体性」です仏教には熏習(くんじゅう)という考え方がありますが、自己の主体性というものではありません。一体この主体性なるものはどうして生まれるのでしょうか。実存主義者たちもこれを問題にしていません。それが不思議でなりません。それ故彼らの主張は知的精神的エリートの傲慢にしか思えません。

振り返ってみますと、現代までの思想の歴史は、この知的精神的エリートからの訓戒のようなものでした。