実存批判
実存的に仏教を考えるとき、ニーチェやサルトルなど、いわゆる無神論的実存主義者たちの言う「仏教は現実からの逃避である」とか、「釈迦は人のことを心から思いやる情愛のない人であった」とかいう考え方について語らなければならないでしょう。 |
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実存主義者の仏教批判の前に、実存主義者の立っている場所というのを見る必要があるでしょう。人は常にその立つ場所からものを言うのですから。あるいは場所をいろいろ変えていうということもできるでしょうが、優れたといわれる思想家にそう人はいません。天才とはひとつの狂気なのですから、ある場所に執着している、あるいは深く根ざしている情熱ということができるでしょう。それでは実存主義の根底にある情熱とは何でしょう。 「実存主義とはヒューマニズムである」とサルトルはいいます。イデアや神という本質について考えるのではなく、人間の主体性、自由を問題にするということでしょう。キリスト教的実存主義は神へ向けての主体性を唱うのですが、無神論的実存主義は存在の本質を問うのではなく、存在の虚無・不条理を乗り越える主体的な生き方を問うのです。しかし、どちらにしても実存主義者は量子論の現れる前の、唯物論や霊物二元論時代における認識「頭脳で認識する現象の、対象である物自体の世界は実体として存在する」という世界観から立ち上げられているのです。つまり「物があるから見える」という常識の上に立っているわけです。「世界は主観的観念に過ぎない」という仏教思想と正反対に「世界は客観的に存在する」というわけです。西洋思想は物神二元論であれ、唯物論であれ唯一神論であれ、ギリシャ・ローマ時代からキリスト教、そしてニュートン・アインシュタインなど非量子科学時代まで、この現実実体論の上に立っていたといっていいでしょう。 |