青春の実存


 振り返ってみると実存主義者のいう自由な主体性を持った人間などごく少数の知的エリートに過ぎないでしょう。僕にも実存主義者たちが提唱した、苦悩と歓喜の連続、「永劫回帰」とか悪と正義の「永久革命」という思想に心酔した青春時代があります。不正な社会的支配に満足していたり、宗教という麻薬にすがる従順な羊たちを軽蔑し憎んだと思います。しかし今にして思えばそれは青春の特権ではあったが、人が必ず老いるように、魂も老いるものだということを知らなかったといえるでしょう。怨恨や敵意、反感はどこから生まれるのでしょう。生まれつき弱い魂の持ち主のほうが多いのはなぜでしょう。そして何よりこの存在の不条理、解決することの無い陰と陽のせめぎ合い、善と悪の戦い、男と女の矛盾、強者と弱者、勝者と敗者、それなくしては存在し得ないという深淵、ニーチェもサルトルもそれが分かっているから永劫革命を描き、永遠の、自由への自己登記を思い描いたのでしょう。しかし青春の熱き思いはそういう矛盾への思いやりを欠いていたといえるでしょう。知的おごりから来る戦闘的な魂の、特権的意識を持って人を裁いていたといえるでしょう。

 反抗的革命的青春を遙か彼方に見、世界の真実の姿、自分の真実の姿を観ることができるようになって理解した仏教的実存とは、狭いドグマを超えて遙かに広大なものでした。仏教は釈迦はじめ様々な如来菩薩という優れた精神のみならず、不動明王や阿修羅、あるいは羅刹などという鬼畜の魂まで、仏教的実存は人間精神の差異、多様性を認めます。「私が無常」とは人間は(正確には魂はですが)変化して、これらすべてになりうるということを意味していると考えられます。このとどまることなく変化し何にでもなりうることこそ仏教的実存なのです。高僧といわれる人でも、たいてい人は人間を固定的に観てしまいますが、魂は変化するものということ、これが仏教思想全体の、本来の姿というものでしょう。
 仏教の「慈悲」を批判して「すべての人を愛するものは誰も愛さないのだ」という実存主義者がいます。悪をも許容する態度を非難しているのでしょう。実存主義者が「慈悲」に対して持ち出すのが「自己犠牲の愛」というものです。実存主義者にしてもそうですが、キリスト教世界にはこれは普遍的な思想でしょう。何しろキリストの死を人類の罪をあがなう犠牲として美化しているのですから。要するに神によって救われようという思想に付きものなのが自己犠牲の精神ですから、そのよって来るゆえんは明白ではないでしょうか。彼らは自己犠牲を代償を求めない母のわが子に対する愛などといいますが、母なら悪い子ほどかわいいというでしょう。善の側にのみ立つ自己犠牲とは、善悪曲直に厳しい父親、父なる神の恩寵恩賞を期待する心があるということでしょう。



 仏教的人間観からいえば、魂には自分を犠牲にする精神も自分だけ得しようとする精神も本来ないものです。純粋無垢の魂は「無」なのですから。魂の発達段階によって自分と他者との一体感が強いのか、それとも他者への憎悪が強いのかという違いができてくるのではないでしょうか。みな状況の産物です。自己の本質は「無(無我)」なのです。愛の本質は自他の区別のない「無(無差別愛)」なのです。実存主義者の自己犠牲愛の源泉もこれですが、社会正義に限定されてしまっているのです。よく聞く話ですが、子供が水におぼれた友達を助けようとして自分も死んでしまったとか、自分の方が死んでしまったとかいうことがあります。子供のころには自分の危険や実力を忘れて助けに走るほどの友情を持っているのです。しかし、まだ自我が未発達だからだといえるでしょう。自我の発達した大人が「自己犠牲」云々を言い出すのは、そうした子供の時代の純粋さに帰りたいということかもしれません。そうした純粋さを取り戻すためには大人の自我を放棄しなければなりません。しかし凡人が自我を放棄するには俗世を離れた厳しい修行が必要です。そんな修行はしたくないというのが大方の人情です。その上、修行の結果人のために犠牲になって自分を消滅させる人間になるわけで、普通ならあまりありがたくないと思うのではではありませんか。しかしまた、そういう人間になりたい(無に帰りたい)というのも魂の真情です。そこに自己犠牲への尊敬も生まれるのです。

 このように宗教は本来魂の本性に根ざすものです。宗教は麻薬であり現実逃避に過ぎないと批判するのは青春の特権ですが、釈迦やキリスト個人の精神をそれによって批判するのは間違いです。しかし、宗教を、現在の世界精神においては逃避的、幼児的依存心という批判は免れません。