仏教的実存とは


 大乗仏教が成立した時代とは、日本では稲作農業が盛んになった弥生時代、インドでマウリヤ朝など全土的な王朝が成立し、中国で秦・漢という統一王朝、地中海世界がヘレニズム時代からローマ帝国へと拡大した。紀元前4百年ころからの千年、この時代は人類のひとつの大転換期だったようです。農業技術の飛躍的な進歩とともに、人口の爆発的な増加があったようです。そのため戦争も増加しました。そこに宗教思想が大衆化に向かう原因があったのではないでしょうか。僕の考えでは、これは人類の幼年期から少年期への転換だと思われます。古代は現実と霊的世界は混沌として、むしろ一体のものだったともいえます。しかし、中世という少年期は外界との交流が拡大し、争いごとも多くなり、必然的により多く現実に、生病老死という人生の苦しみの全体に目を向けることになります。

 大乗と小乗の論点のもっとも大きな違いは、端的に言えば、「自己を救うのは自己のみ」なのか「他者(を救うこと)によって救われる」ことができるのかということです。目の前の苦しみから救う、救われるというのなら大乗のほうが正しいでしょう。人を助けるのは気持ちのいいものです。やさしく平安な気持ちになり、自分に自信がつき、優越感も味わえます。ただし人は必ずしも助けられて喜ぶとは限りません。余計なおせっかいと思う人もいます。しかし、純粋に人を助ける慈悲の気持ちからなら、人がどう思おうといいわけで、そこに無我の道があるというものでしょう。ただ、もし自分自身のことは忘れてひたすら人を救おうと考えることができるのなら、「他者を救い自己を救う」ということができるでしょうが、時としてそういう状態になることはあっても、それになりきることは至難の業でしょう。そうなりきれると考える、なりきろうと努力するのが大乗仏教だといえるかもしれません。僕としては「人を救うとか、人のために尽くす」というのは偽善者や詐欺師、権力主義者の得意とすることですから信用できませんが、多くの人を喜ばすことは確かです。輪廻の苦からの解脱となると小乗のほうが正しいと僕には思われますが、難しいといえば小乗の修行による解脱だってほとんどの人には不可能で、本当に解脱できる人はどれくらいいるでしょうか。などと考えると、自力他力にこだわるのはつまらないという気がします。人は自分で努力もし、人を助けもするもので、僕には竜樹流「空とともに実存する」中道の道が理解できるような気がしてきます。彼の思想が中国から日本へと広がった、実態は世俗化であっても、その後の大乗思想の根幹となったのはうなずけることです。
 大乗は西域から中国へと時代を経るにしたがって王侯貴族のカウンセラー役から、国家鎮護の役割を担う官職としての色彩を強めて行ったようです。日本の平安朝にいたっては民衆相手の福利厚生係かのようにもなっていったといっていいでしょう。戒律も簡略にして仏教全体を認知体得できるというシステムになったようです。日本人は簡略化、簡素化、簡易化が好きな民族ですが、大乗という世俗に関心を持つ理念の必然的結果でしょう。こうして大乗仏教は腐敗していきました。小乗にも腐敗はあります。国家宗教となり宗教的権力を目指すものもいます。自力の修行だって真剣な人は少ないでしょう。しかし自力解脱が尊敬の対象である限り腐敗は必然的に身の破滅ですからきわめてまれでしょう。その点戒律に寛容な大乗は腐敗が宿命といえます。南方の小乗仏教が今も上下を問わず厚い信仰を得ている理由がそこにあるでしょう。インドで仏教がイスラムに徹底的に破壊され滅びたのは、その蓄えた金銀財宝を狙われたからだといわれます。


 さて、仏教に対していろいろ難癖をつけてきましたが思うに、思想とその現実での適用の距離のようなものをよく表しているようです。実存の思想とは自己の思想と現実の一致を目論むことだといえます。
 中世以前の大衆にとって仏教的実存の意味とは、あの世が本当にあるのかないのかということではないと僕は考えます。知的な言い方をすれば、真理の世界があると信じ、真理の世界へと解脱する人を敬愛することによって生きることの意味を見つけていたということではないでしょうか。大衆的宗教の成立は戦乱の世の、死と隣り合わせに生きる民衆の要望だということも忘れてはならないでしょう。それゆえにあらゆる宗教(あるいはあらゆる思想)は平和の中では、その本来の意味は失われ、慈善福祉活動などを通した社交的文化サークルと化し、虚栄心の満足を求めるなど、現世利益的な意味に堕落するものなのだと思います。そしてまた大乗といい小乗と言ってもそれはあくまで僧侶の生き方の問題であって世間大衆にとってあまり意味がないのです。大衆は尊崇し依存する対象がほしいだけなのですから。それが宗教的実存の姿だといえるでしょう。
 無神論的実存主義者が軽蔑した宗教思想ですが、生きることの意味を見るという意味では、彼らの「永久革命」も信仰というか、祈りのようなものでしかなかったのでした。ただ、実存主義の思想がわれわれに残してくれた大切な意味は、結局世界が苦であるとしても、その苦を引き受けて生き抜く自己肯定の姿勢だと思います。あるいはこれは、革命賛美という過激さを除けば、竜樹の大乗思想に通じるということもできるでしょう。人は誰でも苦しんでいる人を救いたいと思うでしょう。釈迦は自分と人々の苦しみを救う道を探して、苦しみの元になる意識を無化するしかないと悟りました。しかしそれだと世界を捨て、自己を捨てるしかないことになります。それは若い魂には向かない思想でした。やはり老いた魂、倦み疲れた魂のための思想というべきでしょう。それをまだ前途ある者たちの思想にしたのが大乗仏教という言い方もできます。『空』とは『無』とはそこへ解脱するべき目的地ではなく、生きることのすべての場所にあるといいたいのでしょう。大乗思想は青年から中高年という社会生活者の思想といえるかもしれません。釈迦の思想は『無』への解脱でしたから、『無』の実存という意味では竜樹の思想に軍配があがるでしょう。もちろんこれは魂の発達段階という視点からの表現でいえば、釈迦の解脱は『愛と』いう面から言えば『愛』の完成ともいえるし、『知』という面から言えば『知』の完成であるといえます。あるいは人生を『魂』の修行の場という面から見れば修行の完成でもあるといえます。それは実存の完成、終わりです。そこへ行くと龍樹思想は実存の過程にあるものだといえます。