唯一絶対神教における自由意志
もどる  
 唯一絶対神教において世界は「神」の創造(人間のためにといわれるようです)になるものですが、問題は「原罪」ではないでしょうか。原罪とは、いわば人間の愚かさ、悪の原因を最初の人間であるアダムとイブに着せる考え方です。なぜ、人類はアダムとイブの原罪を背負わなければならないのか、まったく理不尽な考え方としか思えません。また『神』がもし楽園に蛇や知恵のリンゴをおいたとすれば、それは試練のためとしか考えられません。『神』とは試練を与え、失敗すると罰する存在といえそうです。それでは『神』の絶対的聖性と矛盾しそうに思うのですが、この聖性は従うものだけに向けられているようです。

 楽園におけるアダムとイブは自由に命を謳歌していました。とすれば『神』はアダムとイブに自由意志を与えたということになるでしょう。しかし楽園追放の後のアダムとイブ、その子孫である人類の自由意志については各宗派間に考え方の違いがあるようです。

 キリスト教は『神』に近づく自由を奪われたとするようです。キリスト教においてはイスラム教やユダヤ教より「原罪」が最大の問題になるようです。人間は「神」に対する罪人として贖罪のために生き、贖罪を果たしたものだけが天国へ行けるということのようです。それも「恩寵」によってです。

 ユダヤ教において、信仰は「神との契約」という考えが根本にあるのですから、全的な自由意志の存在は当然でしょう。ユダヤ教徒になるという契約することは、「神の創造」を助ける召使として選ばれることであり、永遠の魂を与えてもらうという約束されることのようです

 イスラム教においては単純に「神」に従うか従わないかだけのようで、自由意志に任されているというべきでしょう。他宗異教徒に対して基本的には寛容でした。
『神』は絶対ですが必ずしも聖なる存在ではないといえそうです。、世界は「神」が人間のために作ったものですから、奴隷のように仕えることが要請され、それに答えることができたものだけが天国へ行けるということのようです。

 思想としての唯一絶対神教
  キリスト教の思想的な魂観は主にギリシャ哲学を元にしているようです。神学者アウグスティヌスの「魂は肉体を支配するために適応され、理性を付与された、特別な実体である」というのもそれです。プラトン流に肉体と魂を対立的なものと考える、精神性のきわめて高いものと言っていいでしょう。アリストテレスのいう「不動の動者」は「神」のことだとします。多くの神学者たちは「魂についてのいかなる確実な知識に到達することも、世界でもっとも困難な事柄の一つである」という彼の見解に同意します。魂のことはこれといった確かな説明、論理的証明などはできないということです。見えないもの存在は、それが在ると感じるかどうかの問題なのですから、当たり前の考え方です。それは「神」の存在についてもいえることですが、それについてはアウグスティヌスのいう「神の恩寵」によって知るというのが答えなのでしょう。
 アウグスティヌスは「人間は自由だから悪を行う」といい自由意志の存在を認めたのですが、アダムとイブの原罪によって『神』のそばに近づく自由は奪われていると考えたようです。しかし「聖霊」の恩寵によって『神』の元に帰れるということのようです。
キリスト教宗教思想の基盤は新プラトン主義といわれます。新プラトン主義の「一者からの流出」を「一者の創造」に読み替えたのでしょう。アウグスティヌスはキリスト教に回心する前にはグノーシス主義の一派であるマニ教の信者だったといいますが、新プラトン主義の影響を強く受け、離れたようです。原始的な二元論に疑問を持っていたのでしょう。そしてキリスト教の贖罪意識に感銘を受け、信者となり、三位一体説確立の貢献者となったようです。彼にとって『神』は「言葉を出すもの」が父であり、キリストはその「言葉」であり、聖霊は「言葉によって伝えられる愛」ということのようです。


つづく