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編集:本田哲康
      
                    
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西暦 天 皇 将軍 年 号 天 変 地 異 社 会 の 状 況
1301 後二条 (北条貞時) 正安 3 ・・・  覚如、「拾遺古徳伝」を著す。
 天皇位が、大覚寺統に移り後二条天皇(後醍醐天皇の兄)が天皇になる。
「悪党」の出現:荘園領主や幕府に武力で対抗した人びと 
 正安・乾元(1299〜1303)の時、(「峰相記」に書かれた悪党)・・播磨国(現兵庫県)
◎ 所々の乱妨。浦々の海賊。寄取(よせどり)、強盗、山賊・・・かかる類十人二十人、或いは城に籠もり、寄手(よせて)に加わり・・・云々
 正中・嘉暦(1324〜29)     同 で・・
 吉(よ)き馬に乗り列(つらな)れり。五十騎百騎打つづき・・云々
 国中の上下過半彼等に同意する間・・・云々→ 国中の大半が同意
 はたして元弘の重事(幕府の滅亡)出来る・・云々 
1302 乾元 1 鎌倉に大火  諸国の一向宗徒禁圧。  5/20覚如、父覚恵より大谷廟堂の留守を譲られる。
1303 嘉元 1 ・・・  忍性(良観)没。
1304 2 ・・・  猿投神社、正一位の称号額作成される。筆者源有忠(左少将、権中納言を歴任)
1305 3 ・・・
1306 徳治 1 ・・・  後宇田院、所領を皇姉昭昭慶門院に譲る。高橋新庄昭慶門院領となる。(「松平町誌」)
 
瀬戸製の灰釉(ゆう)広口壷、鎌倉覚園寺の蔵骨器として使われる。4/日本商船、元にて貿易を行う。
1307 2 ・・・ 大応国師、大燈(23歳)を伴って鎌倉にはいる。
1308 花園 守邦親王(北条師時) 延慶 1 ・・・   補足  ※ 得宗専制の強化 ※
  ◎ 中央(評定衆など)、地方(守護)の要職を北条一門が占め、得宗領も拡大したこと
    に、御家人達の不満がつのった。
    最後の得宗:北条高時の内管領(長崎高資)が権勢をふるった。


     
1309 (北条師時) 2 ・・・  中条景長、衣(金谷)城を築く。(「松平町誌」)

 
覚如、唯善と対決して勝つ、唯善は親鸞影像・遺骨を奪い、鎌倉常葉に逃げ去る。
1310 3 疫病流行す
鎌倉大火。
 中条景長、衣(金谷)城(七州城)を築城。
 鎌倉大火。 覚如、東国の門弟の同意を得て、大谷に還住し、留守職に就任する。
1311 (基時等) 応長 1 ・・・  弁円に聖一国師の号を送る。(国師号の始め)
1312 正和 1 ・・・  夕陽山・本福寺(浄土真宗)建立(正和年間に善道による大津市本堅田一丁目22-30浮御堂の付近)。後、応仁2年比叡山宗徒によって攻撃される(堅田大責)。
1313 2 ・・・
1314 3 ・・・  覚如、存覚に留守職を譲る。
1315 4 ・・・  この頃、下津五日市開かれる。
1316 5 ・・・
1317 (北条高時) 文保 1 ・・・  4/文保(ぶんぽう)の和談。
1318 後醍醐 2 ・・・  後二条天皇が若くして亡くなったので、幼い皇太子に天皇位を移すことができず、一時的な繋ぎの天皇位と言うことで、この年に弟の後醍醐(1288〜1339)天皇(31歳)に即位させる。当時としては異例の高齢な天皇であった。天皇自らによる政治・天皇親政を行った。
1319 元応 1 ・・・  当時の北条高時・鎌倉幕府は、腐敗し国民の不安もあった。
1320 2 ・・・  出羽の蝦夷蜂起。
1321 元亨 1 京都地震。河川氾濫等災害。  京都地震。河川氾濫等災害。
1322 2 ・・・  猿投神社、正二位に昇叙。  瑩山紹瑾(1268〜1325)総持寺・曹洞宗本山の開山となる。http://www.sojiji.jp/ この頃、「本願寺」の寺号が使われ出す。
 この頃、了源が興正寺を創建する。
1323 3 ・・・  覚如、存覚の留守職を奪い、義絶する。
1324 正中 1 正中の変  後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒を図った。 10/正中の変、天皇の討幕計画漏れる。いわゆる「無礼講」(天皇の側近達が倒幕の計画を立てる会議)には、美濃の土岐一族と共に、重宗流源氏足助重範も参加する。
1325 2 ・・・  真福寺「尾張国解文」写本できる。この頃、円覚寺にのこる「富田荘絵図」がつくられる。7/建長寺船、元に派遣。  大徳寺建立。大燈ここに招じられ、開創。興禅大燈の国師号を賜る。 
1326 (北条貞顕) 嘉暦 1 ・・・  覚如、「執持鈔」を著す。
1327 2 ・・・  たびたび伊賀黒田荘(くろだのしょう)の悪党退治、守護代に命じる。
1328 (北条守時) 2 ・・・  慈妙、尾張篠木荘に天台宗末密蔵院を創建する。
1329 (北朝) 元徳 1 ・・・  乗運、尾張葉栗郡前飛保に浄土宗曼陀羅寺(1462まで円福寺)を創建する。  関山、かねてからの公案を大燈に呈す。大燈認可する。
1330 2 ・・・  6/米価騰貴により洛中の米価を公定。吉田兼好「徒然草」
 乾徳山
(けんとくざん)恵林寺(えりんじ)、無窓国師(55才の頃)によって開かれた。当地の領主・二階堂道蘊(どううん)に請われて邸宅を禅院に改めたのが始まり。 LINK→恵林寺
1331 光厳 元弘 1 元弘の変
・・・
 後醍醐天皇再度の倒幕を図ったが、側近の密告でまたも失敗。 8/後醍醐天皇、比叡山に向かうと見せかけて笠置山(かさぎやま)に移る。楠正成挙兵、幕府、光厳天皇をたてる。元弘の変。ここで三河の足助重範、後醍醐天皇方に加勢し、笠置山で戦う:笠置山(かさぎやま)攻防戦。  
 「徒然草」(吉田兼好)この頃成る。  覚如、「口伝鈔」を著す。
1332 2 ・・・  後醍醐天皇は、幕府に不満を持つ武士や幕府の支配下にはない「悪党」と呼ばれる武装集団(この中には、楠木正成もいる)を支配下にして倒幕計画を立て始める。しかし、この企ては事前に発覚して、二度にわたって失敗する。鎌倉幕府を倒そうとする集団が、全国各地に増加して各地に挙兵が相次いでいた最中であった。
 これに対して、幕府から足利尊氏(源氏の子孫である)を都の守りに呼び寄せた。
 後醍醐天皇、この年に隠岐(島根県)に配流。
 その後、足利尊氏は幕府を見限り、討幕派に寝返った。
1333 3
天皇(建武政府)


官 


所 




所 


方 


所 
 従












と 




う 
   
注:武士に与える恩賞が公正とは言えなかったので、武士は不満を持つ
 天皇、隠岐より脱出。鳥取県に上陸し、大山の麓の船上山に籠もって、倒幕を指揮する。
 足利高氏(1305〜58のちの尊氏)は、幕府の有力御家人であった。後醍醐と戦うことを命じられて京に向かう。しかし、足利尊氏は京都で後醍醐側に寝返る。足利尊氏、京の六波羅探題を攻め落とす。(六波羅探題の北条仲時一行、自害。近江国(滋賀県)その場所、蓮華寺に彼等の墓石が今、立ち並ぶ。
 後醍醐、京に戻る。足利尊氏に迎えられ、再び御所の主となる。
 5/7足利尊氏、六波羅を破る。これを機に、全国の御家人達が灘打つように倒幕に鞍替えった。御家人の新田義貞(?〜1338)、上野国(現群馬県)で倒幕の兵を起こす。鎌倉を攻略。得宗の北条高時(1303〜33)自害。
 5/22 鎌倉幕府滅亡。各地に北条氏の残党の乱。残った御家人達の新しい武士政治となる。
  建武の新政(後醍醐天皇の後ろ盾に足利尊氏)。光厳天皇を退位させ、後醍醐天皇の新政となる。
1334 建武 1  後醍醐天皇による政治。乾坤(けんこん)通宝を新鋳し、紙幣と併用。5/徳政令。しかし、発足して早々に、武士たちから不満が涌き起こる。次々と新制度が打ち出される中で、領地を没収される武士たちも現れた。倒幕の大きな力となった足利尊氏も、次第に不満を持つようになった。尊氏は、武士が中心となった政治を望んでいた。各地の反乱を鎮めるために、足利尊氏は関東に出兵する。そして、乱を鎮めた後も、尊氏は鎌倉にとどまり続ける。後醍醐天皇に対し、反旗を翻したと思われる。南北分立の始まりか。 8/二条河原落書。  
1335 2  7/28 中先代の乱(直義、護良:もりよし:親王を暗殺)で足利直義、三河矢作(やはぎ)に退き、8/8 足利氏と合流し、東征に出発。11/25新田義貞勢尊氏配下の高師泰を矢作川岸でうち破る(矢作川合戦)。
1336 光明 建武

延元
3 室町幕府創設

1537
南北朝動乱

天皇の政治から武士の政治に
 1/13尊氏(31才)京都を制圧。1/27北陸から来た北畠顕家、入京、尊氏追われ敗れて九州へ博多。しかし、負けたはずの尊氏に在郷武士達が付き従った。「朝敵を追討するはずの戦であったが皆の士気が上がらない。どうも変だ?!」(結城家文書より) 尊氏、武士の利益を守るための建武政権打倒を図った。→元弘没収地返付令:天皇によって没収された領地を返却。また、後醍醐天皇に対して、持明院統の光明天皇を建てようと画策。 5/尊氏東上。神戸・湊川(みなとがわ)の戦い。新田義貞・楠正成と、闘う。楠正成戦死、弟と共に自害。6/尊氏入京。2〜6 高師直に属した吉良貞家・仁木義高ら吉良荘・八幡・本野原に新田義貞勢と戦いこれを破り遠江に追う。8/15光明天皇践祚(せんそ)。11/足利尊氏・建武式目制定(室町幕府制立)。12/後醍醐天皇奈良吉野へ逃れる(天皇家・南北分立) 吉水院(きっすいいん)後醍醐天皇仮の御所。これを南朝と呼んだ。これに対して足利尊氏は、都に持明院統の天皇を擁立している(北朝)。両統迭立(てつりつ):以後、ほぼ60年間。 関山(40歳)、花園上皇と離宮で合う。    水墨画興る。
1337 4 ・・・  12/大燈(56歳)入寂。  覚如、「本願鈔」「改邪鈔」を著す。
1338 足利尊氏 暦応 1 室町幕府成立  足利尊氏、征夷大将軍となる。(室町幕府成立) 1/21西上する北畠顕家の軍が尾張に入り、足利軍を尾張下津・黒田に破る。尾張・三河の武士、双方に分かれて争う。9/11船で東国に向かう義良親王、台風のため尾張篠島に漂着する。 浄土真宗、本願寺号賜る。
1339 後村上 延元

暦応
4

2
・・・  北畠親房「神皇正統記」成る。8/16後醍醐天皇崩御。
 遺言:
 「玉骨(ぎょくこつ)ハタトヒ南山(なんざん)ノ苔(こけ)ニ埋(うずも)ルトモ 魂魄(こんぱく)ハ常(つね)ニ 北闕(ほっけつ)ノ天(てん)ヲ望(のぞ)マン」
  近くの山中に、後醍醐天皇の息子が建てた吉水(きっすい)神社:塔尾陵(とうのおのみささぎ)=後醍醐天応の墓を作った。通常は、南向きに造営する天皇陵であるが、都が(足利尊氏の)ある北向きに造られた。左手には法華教、右手には剣を携えて葬られたという。・・・ 天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山:正しくは霊亀山天龍資聖禅寺)、吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓国師(この時、京都南禅寺住職)を開山として創建。特に、この寺の「多宝殿」は、後醍醐天皇・足利尊氏・無窓国師の三人の御霊を祀る場所である。
 尊氏、京都天竜寺建立に巨額を投じる。 天龍寺  http://homepage2.nifty.com/cub/niwa/tenryuji.htm
 夢窓疎石(1275〜1351)、天龍寺(京都市左京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68)の開山となる。後の京都五山第一位の寺格を誇る。  北畠親房「神皇正統記」。  
1340 暦応 3 ・・・
1341 暦応 4 津軽沖地震  
1342 康永 5 ・・・  天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山:正しくは霊亀山天龍資聖禅寺)、この年にほぼ七堂伽藍が整い夢窓国師の門流は隆盛した。 天竜寺船、元に派遣。   五山十刹を定める。天龍寺、京都五山第一位の寺格を誇る。
1343 康永 6 ・・・
1344 康永 7 ・・・  広瀬城、備前国児島高徳が築き長男高盛に譲る。『広済寺旧記』より。東広瀬町城下
1345 貞和 1 ・・・  2/6 光厳上皇、幕府の奏請によって、国ごとに建立する寺・塔の通号を安国寺・利生塔とする。国ごとに安国寺、利生塔を設ける。三河は額田郡坂崎村に安国寺、加茂郡長興寺に利生塔を建てる。尾張は不明。
1346 貞和 2 ・・・  2/諸国の新関・津料停止。12/国司、領家の年貢の押領を禁じ、守護の非法を禁止。   興福寺衆徒、 東大寺に乱入。
1347 貞和 3 全ヨーロッパにペスト流行、人口大減少(〜1351)。
1348 崇光 貞和 4 ・・・  宗興、尾張中島郡に臨済宗妙興恩禅寺(妙興寺)を創建する。1364年、足利義詮(よしあきら)によって諸山に列せられる。
1349 貞和 5 ・・・  8/12 足利直義(ただよし)、足利家の執事・高師直(こうのもろなお)を罷免する。三河の諸氏、双方に分かれて争う。直義の党:吉良満義・同満貞・荒川詮頼ら。師直の党:吉良貞経・仁木義長・中条秀長・設楽助定・富永孫四郎ら。
 足利尊氏は、弟・足利直義
(ただよし)を追放し、自分の嫡男足利義詮(よしあきら)に政務を譲らせようとする。  
1350 観応 1 ・・・

尊氏は逆賊として悪名が高かった
 僧無文元選、元の国より帰る。(1343渡る)後、三河国加茂郡の猿投にはいる。
 足利直義(行政や裁判)、尊氏
(高師直を擁して軍事面)と不和となり、南朝方となる。
 観応の擾乱
(かんのうのじょうらん〜52)  7/28 土岐周済、尾張・美濃の兵を率いて足利直義に見方。12/10額田の粟生藤左衛門尉為広ら21人の国人が一揆して直義(ただよし)方に参加する。   足利尊氏の弟、直義と高師直(こうのもろなお)と対立(〜51)
1351 観応 2 ・・・  三河守護高一族没落。仁木義長、三河守護になる。
 2/尊氏、直義
(ただよし)と和す。10/尊氏、南朝へ降る。12/静岡県薩?山の戦い。高師直(こうのもろなお)を殺害。
 京都五山の親、夢窓国師入寂(77歳)。 覚如寂(82歳)。
1352 後光厳 文和 1 ・・・  僧無文元選、足利直義、尊氏と和睦する。 2/直義幽閉されその先で謎の死。  3/26熱田大宮司千秋昌能、足利義詮方の美濃尾張守護土岐頼康を丹羽郡大山寺で破る。7/24義詮、尾張・美濃・近江3ケ国の本所領当年1年分を兵粮料とする(半済令はんぜい)。美濃永保寺、開山堂(唐様)。倭寇、高麗の沿岸を度々侵す。
1353 文和 2 ・・・
1354 文和 3 ・・・  これより先、京都醍醐寺三宝院、尾張国衙(が)領の領主となる。
1355 文和 4 ・・・  8/23明阿尼(師泰女)、高師直・師泰の冥福のため菩提所として、総持寺を額田郡菅生郷に移す。
1356 延文 1 ・・・  天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山)大火に見舞われる。この時を含めて8回の火災に見舞われる。現代の堂宇の多くが明治期の再建。夢窓国師による庭園(曹源池)は、国の史跡・特別名勝第一号に指定。1994年に世界文化遺産に指定される。
1357 延文 2 ・・・
1358 足利義詮 延文 3 ・・・  天龍寺焼失。
1359 延文 4 ・・・
1360 延文 5 ・・・  7/16三河守護仁木義長、畠山国清らと争い、京都を去る(守護交代) 8/4三河守護代西郷弾正左右衛門尉ら、矢作川に出兵し東下する畠山国清と戦って破れる。
1361 延文 6 畿内・土佐・阿波地震M8.5  8/3諸寺等に被害多数。津波で流失1700戸、死者60余。
 南朝、後醍醐の子・懐良(かねよし)親王、征西将軍として一時九州全土を支配。この年九州の拠点である太宰府を征圧。懐良(かねよし)親王は、中国の明王朝(1368〜1644)と外交関係を築く。
 明の記録によれば、1368年には、明の初代皇帝から「日本国王」と認められている。
1362 貞治 1 ・・・
1363 貞治 2 ・・・  三州竹島合戦。吉良満貞配下の天野左京亮ら参戦し戦う。
1364 貞治 3 ・・・  6/19足利義詮、妙興寺を五山・十刹につぐ諸山に列する。
1365 貞治 4 ・・・
1366 貞治 5 ・・・
1367 貞治 6 高月院建立  高月院、足助次郎重宗の子、重政(寛立上人)が松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立。  2/高麗、倭寇禁止を要求。
1368 長慶 足利義満 応安 1 元滅亡(モンゴル高原に退く)し明成立。  6/応安の半済令(皇室領・寺社領等を除く)
1369 応安 2 ・・・  1/賭博・奢侈(しゃし)禁止。
1370 応安 3 ・・・  
1371 後円融 応安 4 ・・・  僧無文元選、広沢庵に居住。衣郷雲林寺に布教。  太平記
1372 応安 5 ・・・  11/諸社神人(じにん)の濫訴(らんそ)禁止。
 琉球、琉球国中山王として、この年以来500年間中国皇帝の臣下として認められてきた。相互に使節団を派遣し交易も盛んだった。
1373 応安 6 ・・・
1374 応安 7 ・・・
1375 永和 1 ・・・
1376 永和 2 ・・・  増鏡
1377 永和 3   六所大明神

 松平太郎左衛門親氏、吉木山に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。 
 8/19'松平太郎左衛門親氏、吉木山(又は芳樹山と称す=現愛知県豊田市坂上町の六所山)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。「六所神社由緒記」
 六所大明神
  ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、八ケ峰神社となった。注:社伝「朝野襃藁(ほうこう)」による。「寂静寺」親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから高月院と改め松平氏の菩提寺となる。 
   '8/菊池武朝、北朝軍に大敗。高麗、倭寇禁止を要求。  
1378 永和 4 幕府を室町に移す  足利義満、室町に花の御所造営。この頃、倭寇盛ん。
1379 康歴1 1 ・・・  宋の制度に習い五山(京の五山=天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺。鎌倉五山=建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)・十刹・諸山を定める。
1380 康歴2 2 ・・・  4/21和田道弘、碧海郡大浜道場(称名寺)に西浜地子を寄進する。  日本海賊、朝鮮半島を荒らす。
1381 永徳 1 ・・・
1382 永徳 2 ・・・
1383 後亀山 永徳 3 ・・・  日本、明と通交断絶。
1384 至徳 1 ・・・  この頃より、高橋庄、京都・相国寺領となる。(「松平町誌」)
 
僧無文元選、広沢庵を去る。
1385 至徳 2 ・・・
1386 至徳 3 五山制改訂  五山制改訂。(禅宗寺院の内、官寺として幕府が保護管理をした、最上位の寺格を有する五つの寺院の五山の順位を定める)南禅寺を五山の上とする。 :京都:1天竜寺2相国寺3建仁寺4東福寺5万寿寺。鎌倉:1,建長寺2,円覚寺3,福寿寺4,浄智寺5,妙禅寺。これらの上位に南禅寺をおいた。五山の禅僧は幕府の外交・文化の顧問として活躍。
1387 嘉慶 1 ・・・
1388 嘉慶 2
この頃の被差別職・穢多  ・・・「被差別部落の歴史」 朝日新聞社
 南北朝の末期の頃、差別心の強い僧侶などが、穢れがおおい”という意味の一見して特殊観を与える文字を特に選んだものであろうとも言う。
 ”庭者”・”河原者”など、当時の職業名の数々を列挙した後に、それらの穢民の職業を下記のように大別している。
 @ 清掃、駕籠かきのような奉仕的雑役。 A 屋根葺き・壁塗り・井戸掘り・石垣造り・造園などの土木関係の仕事 B鳥獣の処理、それに関連する皮革製造や鳥獣の肉や魚介の販売 C 染色・竹細工・履き物つくり、武具づくりなどの手工業 D 運輸・渡船・通信などの交通関係の仕事 E 検察・護衛・行刑などの下級の司法警察的な業務 F 雑芸能
1389 康応 1 ・・・  「曾我物語」
1390 明徳 1 ・・・  僧無文元選、遠江国方向寺で没。   3/土岐康行の乱。
1391 明徳 2 ・・・  この頃、知多・海東両郡が三河守護一色氏の管轄となる。松平親氏、在原信重の家督を継ぐ。  12/明徳の乱(山名氏清、敗死)。
1392 後小松 明徳 3 ・南北朝統一・  10/足利義満の仲介で、南北朝の合一(60年に及ぶ天皇家の対立に終止符)。 (足利義満は、公家を傘下に収め、神社等の人事権を得て、祭祀権と、6,000貫天皇家と同じほどの課税権を手中に収めて、天皇家と同等以上に君臨した。天皇家の次の後継ぎを義満が決定するようになる。)
 この頃より以降、武士は明治に至るまで、事実上の最高権力者となって君臨した。12/朝鮮へ返書、禁寇を誓う。 臨済宗相国寺派大本山。足利義満が創建を発願、1392年(明徳3)に完成、夢窓国師を開山とした。山内に禅宗寺院を統制管理する僧録司を置き、禅宗行政の中心的存在であった。 金閣。 「連歌准勅撰」。
高麗滅亡・朝鮮王朝(李朝)成立。 李(イ・ソンゲ)氏朝鮮建国。 日本へ倭寇の取り締まりを強く要請。「朝鮮王朝実録」より
1393 明徳 4 ・・・  11/土倉役・酒屋役の規定を決める。
1394 足利義持 応永 1 ・・・  4/20高月院松平氏墓所宝篋印塔・初代親氏。 中島郡下津(おりつ)の伝法寺跡に、通幻寂霊を勧請開山として、小牧市に正眼寺(しょうげんじ)建立。
 千鳥寺(千鳥町梨ノ木:この地方の曹洞宗の中心寺院)、足利義満の子天中良運が、弟子達を伴い創建。後(1623)に鈴木正三がここで荒行。
 豊田市中垣内
(なかがいと)村徳山寺創建1394〜1427。(「松平町誌」)
  足利義満太政大臣となる。一休宗純(1394〜1481)生まれる。
臨済宗の僧。京都の出身。禅僧でありながら肉食女犯を行ったにもかかわらず大衆から慕われた。1474年、勅命により大徳寺の住持に任ぜられたが寺には住まず、禅宗の腐敗を風刺し最後まで警鐘を鳴らし続けた。
1395 応永 2 ・・・  松平泰親、親氏菩提のために法蔵寺建立。
1396 応永 3 ・・・  円覚寺、富田荘を政所執事伊勢氏の上総の所領と交換する。
1397 応永 4 ・・・  金閣寺建立。
1398 応永 5 ・・・  幕府、三管領(さんかんれい)・四職(ししき)の制を整備。倭寇、明の辺域を侵略。筑波山の知足院中禅寺(筑波神社の前進)、落雷により焼失。
1399 応永 6 ・・・  この年、千鳥寺(千鳥町梨ノ木:この地方の曹洞宗の中心寺院)、足利義満が寄進したという王摩詰画軸3幅対と『十六善神画軸』および開基天中の自作とされる『毘沙門天蔵』がある。  12/応永の乱(幕府軍、堺城を陥落、大内義弘敗死。)。
1400 応永 7 ・・・  この頃、斯波義重、尾張守護になり、以後尾張は斯波氏の領土となる。守護代織田常松。5/義満、明に第1回遣明船を派遣。
1401 応永 8 ・・・  相国寺を、五山第一刹(さつ)とする。世阿弥、「風姿花伝」
1402 応永 9 ・・・  中島郡牛野郷で牛野百姓等の惣が年貢を請け負う(地下請)。9/義満、明使を引見、国書に「日本国王源道義」と自著す。
1403 応永 10 ・・・
1404 応永 11 ・・・  足利義満、明の勘合符をうる。勘合貿易始まる。 世阿弥「風姿花伝」。 五山詩画軸。
1405 応永 12 ・・・
1406 応永 13 ・・・
この頃の被差別民・穢多 ・・「『破戒』と差別問題」 北小路 健氏抜粋
 中世に於ける寺社は、かつての広大な所領(荘園)を武士に蚕食され、急速に衰退の一途をたどるのだが、それを補うために、商業や手工業に関する市場の権利や、交通運輸の権益を手に入れようとして躍起になる。。 ・・・それは寺社が、隷属する”えた”"非人””河原者”を、いっそう強力に抱え込んで、支配権を確立するという動きに通じる。
 室町時代(1336〜1573)になると、足利幕府は、三代義満のころからすっかり貴族化し、いわゆる”北山文化"といわれるきわだった時期を迎え、更に八代義政の代には、武家的支配力と権威を失って、"東山文化"時代にはいる。幕府は、洛中・洛外をはじめ山城、近江などの支配地域の治安維持や土木事業などにあたって、大幅に”河原者”を使った。
 近世の土木技術史の重要な部分をなす城郭建築の基礎となる石垣造りも、中世の”河原者"が生み出したものだし、その中心となったのは、比叡山延暦寺に隷属する穴太
(あのう)の職人達であった。枯山水(かれさんすい)と言われる水を用いず、石で滝を、白砂で水を表現する石組の庭園も、この石工(いしく)技術と深く関わっていよう。銀閣寺の庭を造ったのは”河原者"善阿弥とその子次郎三郎、孫の又四郎であった。また能楽を大成した観阿弥(かんあみ)、立花の台阿弥など、同朋衆としても将軍にも近侍したのである。これらの人々は、賤視される屈辱を逆手にとり、一芸を磨き上げて、我が国の文化に大きく寄与した。華麗な京染め、友禅も彼等が創り出したものである。 
1407 応永 14
1408 応永 15 ・・・
1409 応永 16 ・・・
1410 応永 17 ・・・  天竜寺を再び五山第1刹に復する。
1411 応永 18
1412 称光 応永 19
1413 応永 20
1414 応永 21
1415 応永 22 ・・・  蓮如、生まれる。
1416 応永 23 ・・・  10/上杉禅秀の乱
1417 応永 24 ・・・
1418 応永 25 ・・・
1419 応永 26 応永の外寇  6/応永の外寇(対馬来寇の朝鮮兵を九州探題等撃退)。
1420 応永 27 ・・・ 雪舟生まれる。応永27年(1420年)、備中赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
1421 応永 28 ・・・  10/11和田政平、三河大浜称名寺に、敷地・船問料・西浜地子・材木船公事などを寄進する。
1422 応永 29 ・・・  世阿弥「花鏡」
1423 足利義量 応永 30 ・・・
1424 応永 31 ・・・  世阿弥『花鏡』成る。 
1425 応永 32 ・・・  岩塚のきねこさ祭り始まる。名古屋中村区岩塚町の氏神七所社で、豊作を祈る田遊びの行事として行われる。昼過ぎ、庄内川へ笹を立てて一人の役者がよじ登り、倒れる方向で豊凶を占う。
1426 応永 33 ・・・  泰親、若一神社(岡崎市岩津町)建立。
1427 応永 34 ・・・  生け花、茶の湯流行。
1428 後花園 正長 35 全国的飢餓  9/正長の上一揆(徳政一揆)おこる。(近江の馬借の蜂起を契機に、山城から畿内一帯の土民が蜂起して酒屋・土倉・寺院などを破却し、私徳政を発して幕府と抗争した。)
1429 足利義教 永享 1 各地で一揆  足利義教、くじ引きで将軍となる。1/播磨の士一揆(守護赤松氏の家督争いに関連し、国人が土民を率いて守護軍の退去を要求したが、守護赤松満祐が鎮圧した。)。2/丹波の士一揆。  尚巴志(しょうはし)、三山を統一し琉球王国を建国。7/出雲の土一揆
1430 永享 2 ・・・
1431 永享 3 ・・・  3/8尾張国六師荘の百姓ら代官御厩野氏の不法を訴え逃散。7/尾張国山田荘の荘民等も逃散。
1432 永享 4 一揆  将軍足利義教、富士遊覧の時、中条氏11代満秀、将軍の勘気に触れ自領没収される。中条氏の所領・高橋庄は三河守護一色義範に与えられる。(「松平町誌」)
 
4/伊勢の士一揆。  日明国交回復。 北条早雲生まれる。戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。彼の以後、五代にわたって東国を納める。家訓「早雲寺殿二十一ケ条」を定める。9/大和の土一揆、赤松氏の兵を破る。
1433 永享 5 一揆 7/近江の馬借京都へ攻め入る。 8/大和の土一揆 近江に土一揆盛ん。
1434 永享 6 ・・・  豊田市王滝町梁山妙昌寺、松平親氏により創建される。(「松平町誌」)
1435 永享 7 ・・・
1436 永享 8 ・・・
1437 永享 9 ・・・  9/20高月院松平氏墓所宝篋印塔・二代泰親。 飛鳥井雅世「新続古今和歌集」(最後の勅撰)。10/貸借の年金定める。
1438 永享 10 ・・・  8/永享の乱鎌倉公方足利持氏は、専制を強め関東武士や幕府と対立。幕府は、持氏討伐の軍を進め、抵抗をほとんど受けずに持氏を自殺させた。これを第一段階として次の結城合戦になる。
1439 永享 11 ・・・  尾張六師荘の百姓等訴訟を起こす。 幕府、足利持氏を討つ。  能狂言完成。
1440 永享 12 ・・・
1441 嘉吉 1 ・・・  6/結城城落城。将軍足利義教、赤松満祐に殺される。(嘉吉の乱)嘉吉の士(つち)一揆。(嘉吉の乱の直後、「代始めの徳政は先例」 と称して起こった数万人の一揆。幕府に徳政令の発布を認めさせて収まった。中世社会では、土地は開発主・農民に返されるべきと観念されており、徳政要求は土地取り戻しの運動となって現れた。) 9/山城の土一揆。 大和の土一揆奈良に攻め入る。この年、徳政令二回発せっられる。 能、狂言完成。
1442 足利義勝 嘉吉 2 ・・・
1443 足利義政  嘉吉 3 ・・・  2-4/山城の土一揆。 秋、京都に悪党横行。 松平郷の薬師堂を長福寺と改称。松平越前守信広より、寺領10石4と余り給せられ幕末まで継続。(「松平町誌」)
1444 文安 1 ・・・
1445 文安 2 大地震  大地震、11/22〜昼夜20日間。(定光寺年代記)
1446 文安 3 ・・・ 7/奈良、馬借に攻められる。
1447 文安 4 ・・・  7/近江、河内、山城、大和に土一揆。 西岡徳政一揆
1448 文安 5 ・・・
1449 宝徳 1 ・・・  大地震、4/10夜、4/12大地破裂、〜11月時々地震(定光寺年代記)。
1450 宝徳 2 ・・・
1451 宝徳 3 ・・・  松平信光菩提寺として岩津村に信光明寺創建。(「松平町誌」)
 
10/大和の士一揆。興福寺大乗院・元興寺を焼く。 尾張守護代織田敏広、父郷広と守護代職を争う。
1452 享徳 1  注・・・信光の生没年については異説・諸説がある。
  1 応永20年(1413)〜長享2年7月22日(1488年8月29日)  - 享年76説
  2 応永11年(1404)〜長享2年7月22日(1488年8月29日)  - 享年85説
  3 応永8年(1401)〜長享3年7月23日(1489年8月30日)  - 享年89説
    などであるが、はっきりした確証がなく、特定できないのが現状であるとされる。
 この年、京都に徳政令出される。
1453 享徳 2 ・・・  3 尾張大県神社領で代官織田氏を訴え、惣荘百姓等逃散。
1454 享徳 3 ・・・  1/播磨の土一揆。 3/京中に盗賊横行。6/醍醐・山科の士一揆。9/山城の徳政一揆。京都に乱入。 10/徳政令を改める。公布。 12/享徳の乱〜82(鎌倉公方足利成氏、関東管領土上杉憲忠を謀殺する。幕府は上杉氏を支持。成氏は、対抗して享徳年号を使用し続けた。)
1455 康正 4 ・・・  9/酒屋役賦課の法
1456 康正 5 ・・・ 1/遠江の土一揆。 9/近江の土一揆 
1457 長禄 6 ・・・  4/太田道灌、武蔵江戸城を築く。6/蓮如、本願寺の宗主となる。 大雹梅実大(定光寺年代記) 8/河内の土一揆。 10/山城の土一揆。京都の土倉と闘う。私徳政を行う。
1458 長禄 7 ・・・  7/山城西岡の土一揆。  尼寺の制  蓮如、親鸞の設定した「講」に、集まった民衆(農民)にも経を唱えさせた。終わった後に、食事を与えた。
1459 長禄 8 天候異変続く暴風雨・河川氾濫凶作。  天候異変続く暴風雨・河川氾濫凶作。
1460 寛正 1 永雨・洪水  河内の土一揆。 永雨・洪水、秋には台風・蝗(ウンカ)。 秋に寛正(かんしょう)と改元。
1461 寛正 2 寛正の大飢饉  この頃、蓮如、三河如光の計らいで三河地方に布教。(「松平町誌」)
 
1/寛正の大飢饉。全国的な食糧不足。越前国河口荘でも9268人餓死。流亡者757人。京都では、餓死者が山となり加茂川をふさぎ、2ヶ月で8万2000の卒塔婆が立てられた。 五条の橋の下で1200余、一日に300〜700の餓死者を出し、山陽・山陰では「人民相食む」状況であった。 2/河内の土一揆。      蓮如、最初の「御文章」著す(〜1498)。この中に、「商売や漁夫の仕事も続けよ。たとえ殺生をするような職業でも信仰の心さえ持っていれば、救ってくださるのが佛なのだ・・・」と、農民以外にも「講」の仲間に入れた。
1462 寛正 3 ・・・   9/山城に土一揆、京都を焼く。 作家 真継伸彦「鮫」 河出書房新社 には、この頃の庶民の姿が史実に基づいて描かれている。
1463 寛正 4 ・・・  9/山城に土一揆。12/大和の土一揆。
1464 後土御門 寛正 5 ・・・
1465 寛正 6 ・・・  5 額田郡浪人丸山・大場・梁田ら国衆、蜂起する。将軍足利義政の命を受け、松平信光(親氏の孫)・戸田宗光、これを平定する。信光、形原、竹谷、深溝、長沢などに勢力を拡大。子どもにその地を分ける。 9/13 大きな流星が京都上空に飛来。天狗流星と予備不吉な前兆とも言われた。(大乗院日記目録」) 10/山城の土一揆。
1466 文正 1 ・・・  足助八幡宮(652創建:品陀和気命ほんだわけのみこと始め五柱)再建。本願寺蓮如、三河へ布教に来る。  9/山城・大和・近江に馬借一揆。 10/大和の土一揆、京都を攻める。 12/ 。
1467 文正 

応仁
2

1
応仁の乱
ヒトノヨムナシ1467
〜1477

東陣VS西陣


(これ以後の期から日本の戦国時代との説あり。)

東山文化
書院の茶

雪舟




剣術・源流派
   
 この年、妙昌寺・華嶽祐厳和尚、宮口村(現愛知県豊田市坂上町)に本地堂を造立し、芳樹山宝光寺地蔵院と号し、住僧光室長運知蔵を別当職に命ずる。(「妙昌寺記」)
 大給城初代城主乗元、大給村(大内町)に高祖寺(後の細川松明院)を開く。
(「松平町誌」)
 この頃(1467〜86)元土地の豪族長坂新左衛門の城であった大給城、戦略的要地として信光により攻略され、以来松平宗家四代親忠がこれを譲られて、親忠は次男源次郎乗元に与えて大給松平氏の祖となった。この年、菩提寺として大給村に高祖寺(現在の岡崎市細川町松明院の前身)を建立。志賀神社:祭神国峡槌命(平藪)再建さる。境内には、津島社、秋葉社、御鍬社、稲荷社、神明宮、高根社
(この年、岩倉西の大峰の高根社からここに合祀・ご神体は、ピラミッド型の石)、白山社、御魂社などが祭祀されている。  
  1/18 両畠山軍(畠山義就
よしひろと畠山政長)の衝突 畠山義就よしひろ圧勝。敗走する政長軍に山名宗全が追い打ちを掛ける。 5/京都。兵乱、連日火災。  東軍斯波義敏の軍、尾張にはいる。応仁の乱:両畠山軍(畠山義就よしひろと畠山義政・弥三郎)の衝突・始まる。畠山義政・弥三郎が勝ち、将軍は一端家督を畠山義就と認めたのだったが、この結果を見て、畠山義政の家督相続を認めた。しかし、将軍が4ヶ月後には再度、畠山義就を家督にと,翻した。(権力を拡大しようと企んで、影で糸を引いた、山名宗全と細川勝元を将軍は処分した。その後、再々ど様子は変わった。) <この応仁の乱は、将軍達の保身のための損害回避などのための寝返りや裏切り、反逆、の多い、筋の通らない戦いの繰り返しだった。下克上が事実上認められる世の中となった。>
 20万人以上の軍の戦い(〜7)。ことの発端は、将軍足利家の家督争いであった。その惨状は、地獄絵図さながらであった。足利家に仕えていたのは、東国の北条早雲。早雲は、疑問を抱き各地を転々と20年あまり彷徨う。 
 足利義政は、足利義視よしみと息子義尚よしひさ)に家督を継がせたかった。
 義政の妻日野富子には子どもができなかったので、義正の弟足利義視よしみ・僧侶(富子の妹・良子が妻)を跡取りにし、その後嫡子義尚よしひさ)の成長を待って将軍にしたかった。それに細川勝元は、異論は無かった。
 しかし、山名宗全
やまなそうぜんは、足利義政を政界から引退させて、足利義視を将軍にしたかった。娘を嫁がせた斯波義廉よしかどを、その管領にさせる意向だった。(当時の管領には、細川、斯波畠山の三家と決まっていた)。 (京都西陣には、今も、「山名町」があり季節になると祭りも行われている。) 
  10/山城の土一揆。 11/蓮如、堅田(かたた)で、大規模な「講」をとりおこなう。・・・『希代未曾有の御いとなみ各地より参詣者の数知れず(本願寺由由来記より)』
 このときより堅田(かたた)衆と周囲の農村に新たな連帯が生まれた。注:堅田(かたた)とは、漁をするものから場所代を取る集団。後に、延暦寺の僧侶たちに襲われて、本願寺と堅田(かたた)の村は焼き討ちにあった。 
 
1468 応仁 2 地蔵院  地蔵院、六所神社山上の神宮寺である寺屋敷の宝寿院(妙昌寺住職曰く:芳樹院殿)を移して光室長運智蔵が開かれた。本堂は茅葺きの寄せ棟造りであり、濡縁も向拝もなく珍しく禅宗寺院の旧態を残していた。曹洞宗の梁山妙昌寺系。永らく無住の寺となった。  8/8大風、古木皆吹き折れる(龍渓院年代記)。
  この頃、蓮如、三河上宮寺にて布教。土呂に本宗寺を建立するという。これ以降、本願寺派が勢力を拡大する。洞泉寺、天台宗より浄土宗となり伊保から衣郷に移る。
1469 文明 1 信光寺 浄土真宗  10/山城醍醐の農民一揆す。 外下山信光寺 浄土真宗東本願寺派(豊田市豊松町トドロ4【賀茂郡大田村】)、21世頓祐、信鸞の弟子となり改宗して浄土真宗となる。28世頓慶のとき額田郡幸田村から現地に移る。応仁の乱も3年目となる。 
1470 文明 2


各地に国一揆起こる
 3/22夜半より地震4/10頃終わる(龍渓院年代記)。
この頃の被差別民・穢多 ・・「『破戒』と差別問題」 北小路 健氏抜粋
 室町末期の応仁の乱は、世の中に大きな変化をもたらしたが、その一つに、これら”河原者"などと呼ばれた人々が、村をつくって一定の場所に居を占めるという姿が急速に目立っていくことがある。それに時代とともに商業圏が広がっていき、商人集団の往来がしげくなり、寺社や権門に隷属していた商工業者が次第に独立して行って、自ずから社会的地位を高めるという傾向もあった。このことは、賤民的商工業にたずさわっていた人びとにも、当然あてはまって行くわけである。
 応仁の乱から戦国時代にかけて、下克上の風潮に乗って、中下層のところから大名と成ったり、家臣団に編入されたり、また地主となったものが多かったように、賤しまれてきた人びとの上にも解放の時が恵まれたのである。 (中略) 社会の上下の秩序と価値観が、大きく変わった時代である。したがって戦国期、いわゆる下克上の社会では、かなりの人びとが脱賤の道を歩んだことは確かである。 (中略) 皮田、穢多の身分は中世に成立しており、彼らを含む中世社会にいた被差別民の一部が、近世社会の中で、領主権力の必要によって身分支配によって把握され、一定の編成を受けて皮田、穢多身分が固定されてきた、とする学説が行われるようになってきた。すなわち、戦国期かなりの人びとが脱賤の道を歩んだが、しかし全般的に見れば、中世賤民は解体したのではなく、その根幹部分(特に穢多身分の人びと)が存続し、近世社会に定着したとする立場である。 (中略) 研究者によって意見が分かれるところだ。身分の移動や変化は、かなりのものがあったと思われるが、それまでの生活を捨てて新しい道に足を踏み入れることは、大変な困難を伴ったはずで、多くの場合、飢えが待っていたし、また、惣村(総寄り合いを以てする自治体としての村)にしろ、商工業の座にしろ、きわめて排他的であったから、そういう世界に入り込むことは至難のことであったろう。  
1471 文明 3 ・・・  岩津城主:松平信光(親氏の孫)、安祥城を攻略、岡崎城の西郷氏を下し西三河に勢力を拡げる。  蓮如(1415〜1499)北陸へたどり着く。越前吉崎で布教。   蓮如(57歳)、越前吉崎に道場建立。この時、「御文おふみ」を著す。この時まで、民衆には難解な親鸞の教典であった。蓮如は、これを仮名交じりの易しい文章に直した。「人間は、まず生きなければならない。今のような世の中に我々のような者が、衣食足りて安泰に暮らすには頼れる者を探さなければならない。仏を頼れば安心して暮らしていける。・・・・。」と言う趣旨のものであった。78通の御文は、民衆によって書き写され、村から村へ、人から人へと伝わって、爆発的な効果を現した。僅か3年で加賀・越中・越前の三国に広まった。人びとは、吉崎を目指して集まった。
1472    文明 4 ・・・  2/山城の土一揆。 9/近江馬借蜂起。
 9/30王陽明(陽明学)この年に生まれる(1472〜1528)。浙江省余姚県。五才まで言葉が話せなかったという。     
1473 足利義尚 文明 5 応仁の乱最中  蓮如の門徒が増加し、多屋(たや)と呼ばれる宿坊が増え200軒に及んだ。この蓮如の布教活動の様子を伝え聞いた越前の守護大名や付近の寺たちは警戒をするようになった。多くの武士も、蓮如の門徒に加わっていた。
 応仁の乱の最中。街は略奪や放火は日常のことであった。 八代将軍足利義政、打つ手立てが無く、、将軍職を辞す。
1474 文明 6 ・・・  松平左京進親忠、正月15日より六所明神社の再建に取りかかる。(「松平町誌」)
 7/加賀半国守護、富樫幸千代と加賀本願寺門徒(坊主・武士・農民)との間に一向一揆。 11/加賀一向一揆。守護代を殺す。蓮如の門徒である武士もこれに加わっていた。蓮如の門徒である武士たちは、「念仏さえ唱えれば、何を行っても許される」と誤解して、暴徒と化していた。本願寺門徒大勝利。 12/朝鮮王、幕府に勘合符を送る。
 一休宗純(1394〜1499)大徳寺住持となる。
1475 文明 7 ・・・  松平親忠、岡崎市井田野に大樹寺創建。大洪水8/3人馬牛損失。(定光寺年代記)  11/18斯波義廉、尾張に下る。 8/蓮如(61歳)、増加した門徒たちの暴挙を押さえきれず、一人吉崎を離れる。(信者が任意の金品を志で差し出す志納金だったが、「年貢」に成り変わった。・・・と、真継伸彦の歴史小説「無明」にあった。)
1476 文明 8 ・・・  斯波義廉、義敏と家督争い。これが守護代織田氏にも及び、下津焼亡。 加賀門徒、守護富樫政親と戦って破れ、越中に逃れる。応仁の乱10年目:義政の妻日野富子は足利義政と足利義視よしみの争いの間を取り持ちこの年両者の和解を取り付けた。また、西軍の好戦派大内政弘と幕府との間の交渉も進めた。結果、大内は四カ国守護職となった「黒岡帯刀氏所蔵文書」。乱の発端となった畠山義就よしひろは、最後まで矛を収めなかった
1477 文明 9 ・・・  9/24三河守護代東条国氏、京都から没落する。 11/大和の馬借一揆。 この年、11月11日、11年目にして応仁の乱収束。 
1478 文明 10 このころ都に一揆続発。  12/清洲城の尾張守護代織田敏定を、織田敏広、美濃の斉藤妙椿等が包囲し攻撃する。 1/蓮如、京・山科に辿り着く。ここにやがて「山科本願寺」を築く。現存する土塁の跡は、高さ9m長さ100m最大幅は30m。「的の城を攻めることがあってはならない。自分を守ることはやむを得ないとしても。つとめて人を攻め立ててはならないのだ。」(徳了袖日記)このころ都に一揆続発し、民衆もこれに巻き込まれていた。蓮如、山科に本願寺再興開始。
1479 文明 11 ・・・  信光寺(教信寺)、徳川宗家三代松平信光の子西心法師(幼名徳弥太)は、当地に入り8代(天台宗教信寺29世)を継ぎ信光寺と改称。 1/1大雷鳴、雹降る(龍渓院年代記)。1/19両織田氏和睦。敏定は清洲城で下郡(海西・愛智郡)を、敏広は岩倉で上郡(葉栗・丹羽・中島・春日井郡)と尾張の分割支配始まる。   お伽草子盛ん。
1480 文明 12  蓮如の門徒、本願寺再興に大阪から支援に集まる。吉野の山から切りだされた50本の樹木を携えた。 9/山城の土一揆。 12/徳政令発布。
    ロシア大公国、モンゴルから独立。 
1481 文明 13 ・・・  一休「狂雲集」没。 8/蓮如、北陸の門徒たちが、敵対する領主たちを攻め滅ぼしたとの知らせを聞く。
1482 文明 14 大洪水  大洪水6/1人馬牛損失。(定光寺・愛知県瀬戸市・年代記)  銀閣寺建立。 7/山城一揆。
1483 文明 15 ・・・  8/22 蓮如、着工から五年半の歳月を経て、山科本願寺を完成させる。 10・11/大和の土一揆
 総面積およそ80万u(甲子園球場のおよそ20個分)本殿・別殿・門徒たちの街。これらは土塁に囲まれ、一大都市となった。商人たちもここに集まった。門徒たちは自ら町の自治を守った。「毎朝 門徒たちは大きな声で念仏を唱和し、教典を読む仏事の日は音曲もなく静かに過ごす。・・・・・寺内町(じないちょう)の掟を人びとに厳しく守らせた。・・・諸仏事を遂行する日、魚の売買を禁ずる日、折々に打つ鐘の数なども細かく決めて守らせた。(本願寺作法之次第より)」戦乱の世にあって、この山科では実に50年もの長い間、平和な暮らしが続けられた。蓮如の目指した理想の空間はこうして実現された。蓮如は、山科で連歌や茶の湯・能を行い、人びとに生きる喜びを与えた。見えない水脈のように全国の信者たちは団結した。時の権力はこれを怖れることになった。
  ルター生まれる。(1483〜1564)
1484 文明 16 ・・・  霧島山中央六所権現宮、噴火による消失と再建が繰りかえされ、この年津島氏により現在地に移る。11/山城の土一揆。京都に乱入。 
1485 文明 17 ・・・  7/大和の惣百姓徳政を求む。 8/山城国一揆おこる。(南山城の国人・土民等は、畠山政長・義就両軍に対し、両畠山軍の撤退、寺社本所領の復旧・新関撤廃を抗議して迫った。翌年、平等院において掟法を定めて国人による自治支配が8年間続いた。) 8/大和・河内一揆
1486 文明 18 ・・・  1469〜この年までに、豊田市豊松町・旧大田村に信光寺創建さる(「松平町誌」) 8・9/山城の一揆。
1487 長享 1 ・・・  滝脇松平氏、初代の乗清は親忠の9男で、この年岡崎市日影町城山に封ぜられた。 守護斯波義寛、近江六角氏征伐に尾張に兵を出す。 北条早雲、今川家の家臣となっていた。この頃、足利家が家督争いを起こし、伊豆で、政治がおろそかになり、民は重い年貢に苦しんでいた。 8/山城の一揆。
1488 長享 2 大洪水尾張両国人馬溺死


浄土真宗本願寺派(一向宗)門徒が各地で蜂起
 随応院:寺部町4丁目、寺部領主鈴木日向守重時の招きで、力石村に創建した極楽山浄土院不遠寺を、勧学院文護寺跡のこの地に移る。1652年にこの名前に改められる。大洪水尾張両国人馬溺死多し(定光寺年代記)   12 加賀一向一揆おこる。(守護富樫氏が越後に援軍を求めて攻撃するや、本願寺門徒の農民・国人や坊主等が能登・越中の門徒と協力して高尾城を攻め落とし、守護富樫政親を自殺させ、以後1世紀にわたり自治支配を行った。)
 15世紀後半、蓮如の時から急速に勢力を拡大した浄土真宗本願寺派(一向宗)門徒が各地で蜂起。1488年、加賀では20万人の門徒が守護の富樫政親を滅ぼし(加賀の一向一揆)、柴田勝家に鎮圧されるまで約1世紀の間、加賀一国を支配した。このように、下のものが上のものを凌いでゆく下剋上は、この時代の新しい風潮を示していた。この年に富樫政親が一揆討伐軍を上げると逆にこれを攻め滅ぼした。
1489 延徳 3 ・・・
1490 足利義稙(たね) 延徳 4 ・・・  京都・大和に徳政一揆。
1491 延徳 5 飢餓(定光寺年代記)  守護斯波義寛、近江六角氏征伐に尾張に兵を出す。  10/朝鮮王、義稙(よしたね)に仏典など贈る。伊勢長氏、堀越の茶々丸を攻めて伊豆を取る。
1492 明応 1 ・・・  注:北条早雲は、伊豆半島一帯を治めた。通常半分は修めることになっていた租税米を、4割で良いことにし、農民に農業を盛んにさせた。撫民政策。
1493 足利義澄 明応 2 井田野合戦

北条早雲以降、各地に戦国大名が生まれる。
 加茂郡・碧海郡ら西三河の国人、岡崎を攻め松平親忠(信光の子)これを破る井田野合戦。第2代松平太郎左右衛門長勝が討ち死。井田野合戦の功により、奥殿、桑原両村を加増され、大給松平氏の発展の基礎を築く。
 北条早雲、重い課税に苦しむ伊豆を見て、応仁の乱と同じ状況を見過ごすことが出来ずに、これに攻め入る。伊豆では、疫病が大流行し1000人を超す死者が出る。早雲は、しばらく攻め入ることをためらい、薬を煎じて村人たちに看病に当たる。村人たちの言葉:「早雲様は、よろい甲を着なさっていたので、とんでもない鬼神のように見えたけれども御心は優しく慈悲深い仏であった。」
(北条五代記より)
1494 明応 3 ・・・
1495 明応 4 ・戦国時代へ・  7/14洪水(龍渓院年代記)。  9/北条早雲、小田原城を襲い城主を追放。 宗祇「山水長巻」。 塚原卜伝。
1496 明応 5 ・・・
1497 明応 6 大地震  大地震、8/2伊勢地方大津波(定光寺年代記)  9/山城土一揆。 12/大和土一揆。
1498 明応 7 東海地方大地震  6/11地震(龍渓院年代記)。8/25東海地方大地震。浜名湖、外海とつながる。津波により家屋流失1000戸、溺死15000人、流死2万6000人。 8/山城土一揆、京都を包囲。
1499 明応 8 ・・・  竜安寺石庭成る。   8/25大地震、人民皆死す(龍渓院年代記)。 蓮如入滅(享年85歳)『一宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候 一人なりとも 人の信をとるか一宗の繁昌に候』蓮如


参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 17 「松平郷」  豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868〜) 19 「松平郷館」   豊田市
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1〜9 NHK
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
13 「日本史事典」  岩波書店 27 「蓮如」 笠原一男 講談社学術文庫
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会  28 「道を極める ー日本人の心の歴史」 魚住孝至 放送大学教育振興会
     
     
                      
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