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< 無断にコピー・転用をお断りします >         編集:本田哲康

 
                  
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 編集にあたって  
 村には、それぞれの氏神様が祀られている。
 その氏神様に礼拝する人びとには、それぞれに皆、営々と続く涙と汗の歴史がある。
 また、道を歩けば所々に地蔵様が鎮座している。・・・。 この地蔵様を祀って立てた人の想いが込められている。
 道を歩きつつ、ふっと、歩みを留めて、・・・・、地蔵様に手を合わせた人びとにも、辿れば人それぞれに、心を打つ歴史もあろう。
 歴史とは、視点の当て方によって、無限の物語がある。
 本来は、皆、平等であった社会だった。
 村の社会の絆が強まると、・・・・、やがて、ヒトはリーダーを求めた。
 次第に、貧富の差が生じた。貧富は増幅した。そして、・・・権力が・・・。
 権力が民をして”文化”を創らしめた。
                
 いっそのこと、子供の頃遊んだような気分で、蟻の世界を眺めるかのように、ヒトの歴史をザ~ッと眺めて、自分の位置を確認してみたくなった。地球という宇宙船。
 ダーウィンの進化論に従って見渡しても見た。
 そこにいのちが生まれた。いのちは、ひたすら耐えて続いてきた。さまざまな環境変化に耐えた。
 さまざまな苦難に耐えた。・・・・。いのち万歳だ。
 ヒトは猿から枝分かれした。
 眺めれば、ヒトの歴史という織物にも、幾筋かの縦糸があり、横糸がある。
 飢餓に苦しんだ永いトンネルもあった。
 ・・・・・。
 ところで、・・・・・。
 それで・・・?!     どうなるの??
 

                                                                     
 
いま、判っていること ・・・  
ずっと



のこと
   
宇宙誕生のことなど   http://www.hm2.aitai.ne.jp/~kuensan/M-theory.htm
原子の誕生史   http://www.hm2.aitai.ne.jp/~kuensan/gensi.htm
地球の誕生誌  http://www.hm2.aitai.ne.jp/~kuensan/birthofearth.htm
いのちの誕生誌  http://www.hm2.aitai.ne.jp/~kuensan/inoti.htm
日本人のルーツを探る  http://www.hm.aitai.ne.jp/~kuensan-1/rootsofjapanease.htm
歴史の流れの必然   http://www.hm.aitai.ne.jp/~kuensan-3/iori-11.htm
年 代  特 徴  社 会 の 状 況
2億年前   大陸移動開始:やがて、現在のようにアジアとオーストラリアが大接近 
3,500万年前   ヒマラヤ山脈が隆起し始める。
2,500万年前   ユーラシア大陸の淵が割れ始め、日本列島が作られ始まる。
2,000万年前   日本海は未だ無かった。沼であった。ステゴロフォドンという、ゾウの化石が今の海岸にある。「山陰海岸学習館」に、鹿の足跡やワニ、サイの足跡の化石が展示されている。また、兵庫県新温泉町に「山陰海岸ジオパーク館」など、8箇所に展示された施設がある。(BS放送大学「日本海の生い立ちを探る」)
1,700万年前   活発な地殻変動。東南アジア諸島ができ、黒潮(現在:毎秒5千万トンの海水・平均水温20℃)が流れ始める。
1,500万年前   ユーラシア大陸の淵は完全に割れて、小さな島々ができる。これが日本列島の原型。鳴き砂で知られる兵庫県の琴引浜では、海岸の緑っぽい岩の化石から活発な火山活動の痕跡も見られる。ゴカイやシャコエビの痕跡が生痕化石として残っている。魚・ミヤノシタサッパの化石も残っている。
 この頃、すでにオオサンショウウオ(世界最大の両生類3,000万年前に誕生か?)は、ユーラシア大陸から日本に来ていた。
1,400万年前   盛んな火山活動が100万年以上続いた。小さな島々だった日本は、互いに融合しながら、この頃再び大陸と陸続きとなりはじめる(~600万年前までの間続く)。
 この間に、タイリククロウサギ(現・アマミクロウサギ)やヤマネは大陸から移動して日本に渡った。 紀伊半島・和歌山県に巨石一枚岩(古座川)火砕岩)が出現。調査によれば、地下には,神奈川県ほどの大岩・マグマがゆっくりと冷えできた花崗岩(60Km×50Km×2Km)が潜んでいる。とてつもない大噴火(地球史上最大規模のカルデラ噴火=通常の噴火の数千倍の規模)がうかがわれる。南北40Km に及ぶ巨大な噴火であった。紀伊半島を埋め尽くすほどの火山灰。西日本の広い範囲(静岡から九州)で,このような大噴火が起きていた。愛媛県の石鎚山1982m、九州宮崎県の大崩山(20Kmも続く花崗岩の山々)など。
 現在、日本固有種と言われる動物は、130種。ガラパゴス諸島よりも多い。
1000万~   ~500万年前:地球全体の気候が寒冷化乾燥化・・大草原が拡大・・・類人猿が地面に下りて多くの時間を過ごす。
 600万年前   ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
500万年前   弧状の日本列島の原型が造られる。   その後、盛んな火山噴火と地殻変動。
400万年前    猿人から原人への進化:アウストラピテクス→ホモ・エレクトス)の時期。  
 300万年前   新潟県八海山1778m。この山頂に火口や海辺にある石がある。千葉県房総半島ボラの鼻の地層により時代とプレートの流れの変化が理解できる。北アルプス、北海道日高山脈など東日本が一斉に隆起
260万~250万年前   この頃のいつか、剥片石器・・南アフリカ(アフリカヌス300~250万年、脳の容積は500ccに満たない。絶滅。)
 260万年  地球が氷河期に入る。その後、およそ10万年のサイクルで氷期が地球に訪れる。氷期には海水面が最大で140m下がって大陸と陸続きになる。
 250万年   アフリカで、ホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
200万年     この頃、寒冷化により日本列島大陸と陸続き。
 人類がアフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡がる。異なる人類種が進化する。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
180万~160万年前   この間に、ハンドアックス(石器)    ○ロブストス(200万~100万年前直前)・・・アフリカヌスとよく似ている、脳の容積は500ccに満たない。歯の化石の状況から、しっかり噛まなければならない硬いもの、砂混じりの,或いは繊維質の食物をよく食べていたことが解るという。アフリカヌス同様、アフリカの洞窟を調査すると、時々、猿や小動物を追いかけただろうが狩猟をする側というよりも狩猟される側になる法が多かった。 ・・・という。絶滅。  ○エルガステル
100~60万年前   上高森遺跡、一斗内松葉山遺跡。 前期原人の石器埋納の痕跡。
78万年前   南極に巨大隕石落下 (BS放送大学「太陽系の科学」)
 60万~50万年前  石器の質の大幅変化・・・脳の拡大。 この頃は、海面が低く大陸と繋がっていた。この頃、マンモスやナウマン象を追いかけて、日本人はこの地にやってきた。(2014。 BS放送大学)  この間に、ヨーロッパ中央部の何処かで、ハイデルベルゲンシスからネアンデルタール人が分岐した。 ・・「ゲノムが語る人類全史」アダム・ラザフォード著 2017.12 文藝春秋)  
 50万年前   ヨーロッパと中東でネアンデルタール人が進化する。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
 千葉県房総半島隆起し始める。
50~35万年前  小鹿坂、長尾根遺跡   墓や祭祀場を作り始める。この頃(35万年前)以降に、少数の石器で移動性の高い生活を・・。
 40万年前 ニホンザル   ニホンザル(Snow-monkey)は世界最北端の猿は40万年前に日本に渡った。
 これより全国に広がる。しかし、度重なる氷河期で、一端、東北地方の猿は絶滅。
30万年前   火が日常的に使われるようになる。サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著  
40~10万年前       この間に愛鷹山が火山噴火によってできる。
20万年前   東アフリカでホモサピエンスが進化する。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
13万年前  中峯C,馬場壇A遺跡   この頃から、旧石器時代の中期とされる。 鳴子火山噴火し、一迫軽石が地表を覆う。
10万年前       富士山が噴火によって誕生。このころまでに小御岳山が噴火によってできる。
7万3500年前
この頃から、ヴェルム期~1万年前 
インドネシア・スマトラのトバ火山大噴火(長さ100Km幅30Km)・・・この後、1年余りで、年平均気温(全球平均)が12℃低下。1,000年間極寒期。 噴火の規模は、1981年のセントヘレンズ噴火の4,000倍。 1815年のインドネシア・タンボラ山噴火の40倍。 超巨大噴火。人類の半分ほどが死滅。
7万年前     言語が出現する。歴史的現象のはじまり。ホモサピエンスがアフリカ大陸の外へと拡がる。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
5万~3万年前   旧石器時代    長野県・野尻湖でナウマン象の牙、オオツノジカの骨・角が発見され、この年代のものと思われた。1962年から発掘調査が継続している。1984年には、ナウマン象の足跡が見つかった。
 (ここ、野尻湖では、ナウマン象の骨で造った道具も発見され、太古の日本人が狩りをおこなった場所とされている。=時代は不詳) 細石器を埋め込んだ槍が発見されている。
 4万5千年前   ホモサピエンスが、オース盧等リア大陸に住み着く。大型動物相が絶滅する。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
3万2千年前    火山噴火  屈斜路湖(カルデラ湖) 支笏湖(カルデラ湖) できる。
 3万1千5百年前   火山噴火  阿寒湖(カルデラ湖) できる。
3万年前    ネアンデルタール人が絶滅する。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
3万年前 

(3~2万年前)
日本列島のカルデラの大部分は、この時期につくられる:
ヴエルム氷期の
最盛期
 群馬県・岩宿遺跡から、黒曜石の石器が1946年に発見された。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』    北海道でこの頃に生息していたらしい大型の象の歯が発見された。(北海道・湧別町1999年)マンモスのものか、それともナウマン象のものか調査中(2008年)
 
 鹿児島県・種子島・立切
(たちきり)遺跡で、焼けた土や礫群(れきぐん)=小石の群れが発見される。ここは、食物を火で調理をした跡と思われる。焼いた石を獲物の上に置いて調子をする方法は、オーストラリアの先住民達に今でも見ることが出来る。(1997年発掘)

 今の桜島噴火(姶良あいら火山)数日間続く。日本列島全体に火山灰を降り積もらせた。その後海水面が上昇し、現在の景観となった。その規模は150立方Km.(九世紀の富士山噴火:1.4立法Km) 、朝鮮半島にまで噴火の影響。
 2万8千年前  野尻湖遺跡群、    鹿児島湾の大噴火。これによって鹿児島湾が誕生。(10万年前の富士山噴火の200倍の規模)
2万5千年前  火山噴火    洞爺湖(カルデラ湖) できる。 阿蘇のカルデラ(2万5千年乃至1万4千年前) できる。
2万4千年前

(較正暦年だと、2万五千年)  
 縄文時代以前の旧石器時代が日本にもあった。

 最寒冷期、海面低下、大型獣の絶滅。(薬莢山、富沢遺跡) 
  群馬県・岩宿遺跡から、黒曜石の石器が1946年に発見された。この黒曜石は、那須の高原山、長野県・八ヶ岳、箱根の物であった。そして海を隔てた神津島の物が、茨城・栃木・三重県などと広範囲に各地で使われていたことが解った。旧石器時代の丸木船は、出土していない。海水面は低かったが、当時は海で隔てられていたことは解っている。
 これは、関東ローム層の土中にあって、24,000年以上前のものと言われる。
 火山活動の激しかったこの時期に、人間は住めないというのが定説であった。しかし、石器類が次々と、この関東ローム層の中から発見された。
(2008年)
 2万3千年前  最終氷期:アジア大陸の多くは氷河に覆われていた。この頃のシベリアには、マンモスが住んでいた。
 時には、湿地帯からマンモスの肉や子供が、毛の着いた状態で発見された。
 海水面が100mも低かった。
 平均気温は、現在よりも7℃以上も低かった。日本は、今のシベリアと同じような気候であった。 
  この頃か、日本列島に人類が居住(定住)を始める。 木の実などの貯蔵、燻製作り。 
   神子柴、掃除山、栫ノ原遺跡など   較正暦年だと2万2千年前頃、貝塚の形成(上野原遺跡)
           LINK  日本人のルーツ
 2万年前   海面は、現在よりも100m以上低かった。そのため日本はアジア大陸の一部だったので、動物は自由に移動できた。平均気温は、現在よりも7℃以上低く、現在のロシア・シベリア地方のような気温であった。東日本の陸地には、草原と亜寒帯性のトウヒやグイ松など針葉樹林が広がっていた。(仙台市・富沢遺跡) 当時の日本には、シベリアからヘラジカ等の大型動物が入ってきた。マンモスは、旧石器時代の日本にも生息していたらしい。 竹内均説:この頃以前に血液型Oタイプの太平洋アメリカ型の人たち(南Ⅰ型)が、南方からわたる。(黄色人種・モンゴロイド)
 日本列島の北は、大陸と陸続きだった。対馬海峡も今よりも狭く、大陸と陸続きだったという説もある。
 北海道では、大型の象の骨が数点発見された。(北海道・湧別町1999年)
2万2千年前~6千年前   集団墓地の形成、墓への副葬、全国で定住化確立。気温温暖化し、海水面上昇。漆のしよう始まる。遠隔地との交易活発化。円筒土器文化圏の成立。(里浜貝塚)
2万年前   愛知県牛川人(旧人)&静岡県三日人・沖縄県・港川人が、確認された。身長が低く顔が平べったく南方系の形質を持つ人類。縄文時代へと受け継がれていく。
BC1万7千   先土器   上原遺跡、亀首遺跡
 氷期が終わり温暖になると、日本海に暖流入り込むようになり、日本海側ではブナの森が茂り、雪が降るようになった。狩りの対象は、象や大角鹿と言った大型動物から、鹿・猪などの中型で動きの素早い物に代わった。そんな獲物を捕らえるために造られたのが弓矢であった。石鏃(石の矢じり)は縄文時代から見られるようになる。磨製石斧や木の実などを擦り潰すための石皿なども造られた。 
 1万6千年前    ホモサピエンスがアメリカ大陸に住み着く。アメリカの大型動物相の絶滅が始まる。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
1万4千年前   竹内均説:この頃に血液型Bタイプのインド・満州型の人たち(北Ⅰ型→アメリカ先住民の祖先でもある)が、シベリアのバイカル湖当たりから出発して樺太から南下してわたる。(黄色人種・モンゴロイド)
1万3千年前     この頃、日本は今の日本列島の形になる。   鹿児島湾に噴火・桜島の誕生。  縄文時代より前のこの頃、細石刃の旧石器は、鮭の漁獲と共に日本にたどり着いている(加藤晋平)。 
  ホモ・フローレンシスが絶滅する。ホモサピエンスは、唯一生き残っている人類種となる。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
1万2千年前-2千数百年前      縄文時代の始まり。

  土器が造られ始める。

    この頃 氷河期の終わり。
 縄文時代には、翡翠や黒曜石などの石器が非常に広範囲に出土する。遠距離観の交易が行われていた。数名からなる一つの世帯が、中央の広場を取り囲むようにたて穴住居に住み、数世帯で集落を営んで、水場や墓地などがあったと考えられている。(BS放送大学)
 土器が使われ始める。
 海水を煮詰めて作る製塩土器(茨城県法堂遺跡)・煮炊き・あく抜きに使う土器。→煮る・ゆでる、貯蔵する、運ぶ、食器として使う等に応用される等、住まいと火の関係が変化する。 犬の飼育も始まる。 隆起線文土器:粘土のひもを貼り付けてつくる。
 鳥浜遺跡から、12600年前の漆(ウルシ・・ニホンウルシとは別種)が発見された(H29)。漆は人工的に管理されないと他の樹種に浸食されるため、これはやきものの割れを接着させたり、利用するために栽培されていたのでは無いかと思われる。<縄文時代前期からから、ベンガラとか水銀朱を混ぜて色づけした赤い漆が祭祀などで耳飾りとか容器など使われていた。赤漆の櫛(7200年前)石川県三引遺跡、漆容器(6800年前)島根県夫手遺跡などが有る>。
BC10,000   先土器時代   愛知県豊田市岩倉町、吉ヶ入B遺跡
 BC10,000年頃氷期が終わる。大型動物絶滅し、中・小動物繁殖。
 農耕へ移行する前の狩猟採集民は、主にオーストラリアと南北アメリカに100万~200万人。この頃は、それを遙かに超える2億5000万もの農耕民が世界各地にいた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
1万2千年前   農業革命が起こる。植物の栽培化と動物の家畜化。永続的な定住。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
BC10000~3000    舞木遺跡、御船遺跡、御船大釜遺跡
 BC9500  1995年にトルコ南東部のギョベクリ・テペと呼ばれる場所で見事な遺跡を発掘。日常的な活動の形跡は見られない場所で、見事な彫刻を施した石柱から成る記念碑的構造物を発掘。最大で7トン、高さは5m。近くの採石場からは削り掛けの石柱(重さ50トン)が一つ発見された。得られる証拠物品からすると、狩猟採集民の建造によることが解った。彼らの文化の複雑さは従来考えられていたよりも遙かにめざましかった。中央に神殿を構えて、その後その周囲に村落ができたと思われる。周囲には、栽培化された小麦(ヒトツブコムギ)が確認された。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
 1万年前  この頃までが、縄文草創期   富士山がほぼ現在の形となる。この頃から平均気温上昇。
 海面の上昇で、スンダランドは消え、スマトラ島などが残った。 
 BC10000頃           地上の狩猟採集民、およそ500万~800万人。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 BC8500頃        世界で最大級の定住地はエリコのような村落で数百人住んでいた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 BC8,000~~BC1,500年    中国・長江文明
 BC8,000~~BC2,500年    中国・黄河文明
 
 BC7000年頃       アナトリア・チャタル・ヒュユクは、世界最大の定住地だったかもしれない。5000~10,000人。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著  
7,400年前    トバ火山噴火 (BS放送大学「太陽系の科学」) 
7,300年前     薩摩硫黄島、超巨大噴火・・現在の硫黄島と竹島ができた。その間は飛散(170立方km=琵琶湖三個分)し直径20kmの鬼塊(きかい)カルデラとなった。 この時の100km離れた九州にまで飛んできた火砕流に、巻き込まれた縄文人が居た。石器から木の実を主食として生活していた。彼らは殆ど死に絶えた。数百年後に再び縄文人。焼け跡で狩猟生活をした。 VEI 7(1991年 フィリピン ピナツビ火山=6,'15の口之永良部島(くちのえらぶ)=1、'11年の新燃岳(しんもえだけ)=3)。2010年調査して判明   「サイエンスZERO」2016.5 NHK より
 6,000年前   およそ6,000年かけて、気温上昇・ 海面上昇この頃がピーク。    今(2010年)よりも高い平均気温。 東京の興宮遺跡(現在、海水下)で、クルミ、鹿の顎の骨など出土。
 ニホンザル(Snow-monkey)は世界最北端の猿は40万年前に日本に渡った。
 この頃に下北半島に住み着いたと推定される。
BC5000~4000    肥沃な三日月地帯(パレスチナ地方からペルシャ湾に及ぶ農業地帯)には、何万にも及ぶ住民を擁する都市が続々とでき、近隣の多くの村落を支配下に置いていた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
BC3114   マヤ遺跡によると、マヤの世界の始まりはBC3114だったことが解った。(731年に建設された遺跡の記述に「世界の始まりから数えて建築の年までに閏年が931回:7モル有った」と記されていたことよる) :マヤ暦(1年365.242日)はユリウス暦(1年は365.25日)よりも正確だった。現在の天文学の計算(1年=365.2422日)とほぼ同じ精度であったという。
 5,100~3,800年前  三内丸山遺跡で集落:木炭を使用した炭素年代測定により、三内丸山遺跡で集落が営まれたのは炭素年代5100年前~3800年前で暦年代に補正すると紀元前3800年~2100年になることがわかった。
5,000年前
BC3,000 
  竹内均説:この頃に血液型Aタイプの湖南型(南Ⅱ型)の人たちが、長江(揚子江)の南江南からわたる。(黄色人種・モンゴロイド・・イヌイットの祖先でもある)
 縄文時代 早期  愛知県豊田市幸海町・酒呑ジュリンナ遺跡
  古代エジプト誕生(~9年頃まで)   この頃には、ナイル川下流域全体が統一され、最初のエジプト王国となった。レキダイノファラオは、何千平方キロの土地と何十万人をも支配した。最初の王国、書記体型。貨幣。多神教。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
BC3500~3000   シュメール人文字による書記方法発明。1,10,60,600,3600,3万6千を現す記号が粘土板に・・。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 BC3000~2500  メソポタミア人、くさび形文字によって命令を出し、神官は神託を記録した。また、同じ頃、エジプト人は象形文字を別の書記体型を開発。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
2300~2200年前   竹内均説:この頃に、北方系:北Ⅱ型・弥生人が華北からわたる。(黄色人種・モンゴロイド) 
 BC2,000  縄文時代早期後半  愛知県豊田市坂上町、王滝岩陰遺跡
 同       同   、判行前遺跡
 BC3000~2000  エーゲ海のクレタ島付近にミノア文明。クノッソス遺跡。ミノア文字は未だ解明されていない。雄牛がシンボル。開放的で自由な文明か、胸を露出した女性ばかり達の壁画。サントリニ島の半分が消滅された、紀元前15世紀に火山噴火により大半が灰の下に。プラトンの言う、アトランティスが、この時に飲み込まれたのではないかと言われる。
 BC2589~    エジプト・クフ王在位(~2,566)BC2528没。 クフ王のピラミッド、およそBC2,600年前に造築。約2.5tの石・300万個の石灰岩。地上60mの高さに「王の間」がある。ここには、花崗岩が使われている。大きい物で60tの石が43個使われている。(象の10頭分)。歴史家ヘロドトスは、「ピラミッドは20年間で造られた。」という。 近年('09)、ピラミッドを造った労働者達の住む町が発掘される。町の規模はおよそ4,000人。<フランス人建築家・ジャン・ピエール・ウーダン氏は、ピラミッドの建築方法を10年間研究した。1999年~>
 BC2250   サルゴン一世が世界初の帝国、アッカドを打ち立てた。この帝国は100万を超える臣民と5400の兵からなる常備軍を誇った。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
BC1776    ハムラビ法典制定。これは法律と裁判の判決を集めたもので、バビロニア帝国全土のより画一的な法制度の基盤の役を担い、未来の世代に正義と名何か、公正な王はどう振る舞うかを教えることを目的とした。バビロンは世界最大の都市だった。臣民の数は100万を超え、現代のイラクの大部分とシリアとイランの一部を含むメソポタミアの大半を支配していた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
BC1600年頃    中国・商王朝現れる
BC1595年    バビロン(バビロニア帝国)を、後のヒッタイト帝国を築く軍が襲う。
 この頃、オリエントを支配していた三つの大国があった。エジプト・アッシリア・バビロニアであった。
 BC1500年   モーゼ(元羊飼い)に率いられて、エジプトからユダヤを出る。海が割れた話は、地震による津波直前の海面上昇。その後、高さ150mの津波。津波にエジプト軍が飲み込まれる。(「出エジプト記」「申明記」のシナイ山(神から十戒を授かった場所:現在の「ハシムタリク山」)、神の細かい指示よって作られた金製の「契約の箱(生け贄となる動物を、毎日祭壇に捧げていた。)」等聖書に書かれた一連の記述が真実であったことがが史跡などの解明により解明・実証された。2006年放映) エジプトは、ツタンカーメンの時代。
 BC1500~BC1000の間に、ゾロアスター(ツァラトゥストラ)という名の予言者が、中央アジアのどこかで盛んに活躍していた。後のゾロアスター教。二元論(善と悪)の宗教
。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 
 BC1350年    このころ、歴史上、最初の一神教が、エジプトで出現した。アテン崇拝。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
 BC1300年    エジプトではラムセス二世の頃である。隣接した地・地中海の北東部にヒッタイト王国があった。
BC1274年

ヒッタイト文明の崩壊  
  ラムセス二世とヒッタイトの王の弟・ハトゥシリ王子の指揮する軍(47,000人の兵隊と戦車部隊)との対戦(カディシャの戦い)。エジプト軍を南に追いやった。(ヒッタイト文字の解読による)後に、エジプトと和平。条約文書の中で、ヒッタイトの王はエジプトから「大王」と呼ばれて、その存在を認められた。これは超大国の君主のみに与えられる称号だった。ヒッタイトの、世界制覇の野望は満たされた。
 しかし、これより数十年後、ヒッタイトは歴史から消え失せた。その理由は、3,000年間不明のままであった。ヒッタイトのもう一つの文字・象形文字を解読して、ヒッタイトの滅亡の原因が判明した。くさび形文字と象形文字が併記した王の印象から、この象形文字の解読が可能となった。最後の王は、帝国内部の身近な人物の謀反による追放であった。王に対する王の叔父であるハトゥシリの謀反が原因だった。その後、三代にわたって、両家の反目は続いた。内戦によって、秩序は乱れ、食糧の不足に悩むようになった。町は活性を無くし、最後にはすべての財宝などをもって、自ら築いた城や町を焼き払って他の地の移動したことが、遺跡の発掘から判明した。侵入者による略奪の痕跡は認められなかった。彼らの足取りは、今も不明である。
 持ち出した財宝は、いつか何処かで発見されるであろう。 
BC1200年頃      中国では別個の書記体型。 エジプトの墳墓で発見された壁画には二頭の雄牛が鋤で畑を耕している。農耕民は前屈みである。過酷な重労働であったことも覗える。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 BC1027年頃  中国・商王朝滅ぼされる → 西周 
BC1000~500年     中央アジアで、完全な書記体型が発達した。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 
紀元前5世紀、この頃、エジプト、アラビア、バビロニア、ウズベキスタン、インドなどの中心にペルシア帝国が築かれていた。出土品の壁面彫刻などからおよそ23の人種が識別できる。異文化を積極的に取り入れる柔軟性を持っていた。帝国のキュロス二世の碑文は今も残っている。(「予はアケメネス家のキュロスなり。云々」碑文は三つの文字<バビロニア語・エラム語・古代ギリシア語>で印されている)。これは多民族による統一国家を意識してのことであろう。
BC1000   普遍的で、宣教を行う宗教が現れ始めたのはこの頃だった。そのような宗教の出現は歴史上屈指の革命であり、普遍的な帝国や貨幣の出現と同じように人類の統一に不可欠な後見をした。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
BC1000頃 
 アーリア人がインド・インダス川下流域に進出。先住民を征服しながら、牧畜と農耕に基ずく社会を築く。彼らは、太陽神・スーリアや火神・アグニ、雷神・インドラなど様々な神を崇めた。「リグ・ヴェーダ」は、神々への賛歌を集めた聖典である。複雑な儀式体系を築いて、バラモン教を信仰し、社会で地位を得た。古代のインドでは、このバラモン階級が頂点とした社会であった。
 アーリア人  司祭 首長 バラモン(司祭者)  ヴァルナ   やがて、この体制を批判したのが仏陀であった。

 身分に関係なく仏陀の教えを聴くことができた。
一般人 クシャトリヤ(王侯・武士) 
ヴァイシャ(農牧民・商人)
先 住 民   シュードラ(職人)
不可蝕民(奴隷民) 
BC1000頃    アフロ・ユーラシア大陸中にまったく新しい宗教が広まり始めた。インドのジャイナ教・仏教、中国の道教や儒教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義・エピクロス主義は神への無関心を特徴としていた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
 BC1000~500   アッシリア興る。エジプト衰運。ギリシャ文化育ちはじめる。 
 初期の古代帝国。後期アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシャ帝国。これら三国は皆何百万もの臣民を支配し、何万もの兵士を擁していた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
BC770    神郷下遺跡(縄文晩期):猿投町神郷下。土器・鉢類、石器・石斧、石冠、石刀など。
  中国、春秋(BC~404)・戦国時代(~BC221)   
 この間に、老子。荘子(生没年は厳密には不明だが、369~286の間)。老子には政治色が色濃いのに比べ、荘子は徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている違いがある。荘子は、老子の影響を受けていると思われている。
BC750   753年,ローマ建国。  アッシリア勢力衰え始める。 
721~710  サマリア滅亡。  
BC700    アッシリア、近東地方を統一(701) 
BC660    神武天皇即位の年と伝えられている。(歴史学的には不明な点が多い)
BC650    アシュルバニパル図書館完成(ニニヴェ)。 
BC600     ギリシャ哲学(ピタゴラス、ソッフォーなど)
   BC587~6、エルサレム、ネブカドネザルに包囲され、3ヶ月の後陥落
BC551     孔子生まれる(一説には552年)現、山東省曲阜市東南尼山付近 魯国昌平郷辺境の陬邑(昌平とは太平を盛んにするという意。邑は村の意)、現在の山東省曲阜(きよくふ)市で下級武士の次男として生まれたとされる。卑賎階級の巫女の子として生まれたとの異説もある。孔子自身は「貧しくて賎」と語っている(『論語』)。父は叔梁紇(しゃくりょうこつ・きつ)。家は貧乏であったが陬邑(すうゆう)地方では代表的な家系であった。女児9人男児1人の子持ちの所に後妻にきた母親に末っ子として産まれた。三歳の時に父親は亡くなり、しばらくして母親・徴在も亡くなる。季氏の家に使われて、会計係のような仕事もやらされれば、豚や羊の飼育も行った。   
  バビロン虜囚として、ユダ人ぞくぞくと故郷を去る。 予言者エゼキエル。 この頃、イザヤ書40章~55章成る。
 550~330のころ、アケメネス朝ペルシャ帝国は、ゾロアスター教が重要な宗教だった。後のササン朝ペルシャ帝国(BC224~651年)の国教となった。それ以降は中東と中央アジアのほぼすべての宗教に大きな影響を与えた。グノーシス主義やマニ教等他の数々の二元論の宗教にも刺激を与えた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
 BC539   新バビロニア王国滅亡。
BC537   孔子15才。この頃、武力を捨てて文事に励む姿勢が亡父(父・叔梁◇は3歳の時に死去)一族に受け入れられず断絶状態。◇:糸偏に乞
BC535   孔子17才のとき母・顔徴在(34才)死去。 
BC529   孔子23才、この頃私塾に似た仕組みをつくり,詩書礼楽を教え始める。
 BC525   ペルシャ、中近東統一。
 BC522  孔子「而立の歳」・30才。はじめて魯国大廟に入る。この頃より最初の弟子を取って授業する。
 子路・曽點・顔路冉伯牛・仲弓等の弟子はこの頃入門したらしい。
BC500   縄文時代後期   愛知県豊田市坂上町、三斗目遺跡
BC479   2/18孔子死去(73才)生地北に墓がある。  
BC469     ソクラテス生まれる。(~399)
BC463     このころ釈迦(ガウタマ・シッダールタ)誕生。 (生年:中村元説)

 
LINK  人間・釈迦   
 このころ釈迦(~486)誕生。=親鸞が七高僧に挙げる僧1。

     注:釈迦誕生には、諸説があります。
  例えば、
      566~486年 ないし  560~480年
      466~386年 または、 463~383年  或いは 480~400年頃です。
      中村 元 氏の説は、463 ~383年です。
BC428    釈迦(35歳)悟りを開く (中村元説)
 はじめは、仏陀の神聖なお言葉は直接弟子に言葉によって伝えられた。「如是我聞」=「私はこのように聴いた・・・」・・と、
口伝えで弟子から弟子へと伝えられたのであった。文字にすることを嫌ったのであった。仏陀の教えのみならず、仏陀の姿を
書き写すこともタブーであった。古代インドに遺された「仏陀の生涯」の物語も石に刻まれている。
 ここでは、仏陀の姿は車の車輪のような、或いは味方によっては菊の紋のような・・・、或いは光る太陽のようにもうかがえるシンボルに置き換えられていた。
 聖なる教えを文字にすることで、聖なる言霊が文字に封じ込められてしまうという考えからであった。
 神聖なものは、安易に形にするものではなかった。
 (五千万字を超える「大蔵経」(6,800巻)が産まれたのは、数百年後のことである。)
                         *************************
 このような傾向は、古代ユダヤ人にとっては、より強烈なものであった。
 ユダヤ教にも見られる。神の名は「ヤハウェ」或いは「エホバ」と呼ばれている。しかし本当の名前は解っていない。
 ユダヤ人は神の名前をヘブライ語で我が主の意・”アドナイ”と呼び替えてきた。
 永い歳月の後に本当の名前は忘れられた。 「旧約聖書 死海写本」東京聖書図書館蔵 では、ヘブライ文字四文字で記された神の名前は、テトラグラマトン・神聖四文字と呼ばれ、アルファベットで『YHWH』と、母音が省略されているので、ヤハウエィやエホバという呼び名は、この四文字からの類推である。・・・・日本聖書協会 宮崎 修二氏は「今でも、この四文字をみだりに使ってくれるな!という風潮は強い」と述べる。
                         *************************
 神聖なものをみだりに指し示すことへの畏れは、古代日本人にも見られた。
 日本の古墳に、王の名前が見られないのは、天皇
(みこと)の名前を文字にすることで、尊(みこと)の神聖さ=言霊を文字の中に封じ込めてしまうと思われていたからである。   明治大学準教授 加藤徹 氏 
 BC443~429ギリシャ全盛。   
 BC427 プラトン生まれる。(~347)  
 BC400 吉野ヶ里遺跡   佐賀県神崎郡吉野ヶ里に集落ができはじめる。古墳時代には消滅する。
 ここで、連弧文鏡(紀元前1世紀のもの)は発掘される。日本で発見された最古の漢字文字。
 「久不相見長勿相忘(久しく相見ざるも長く相忘るることなからん)」と在った。
 BC399  ソクラテス死。   
 BC384  アリストテレス生まれる。(~322) 経験的考察を体系化。
  BC383

(没年:中村元説)
 釈迦(80歳)入滅(ニルバーナ:もう二度と煩悩は起きないの意)。
仏教の特徴      平等主義  「涅槃経」
 私は、29歳の時に善なるものを求めて出家した。
 ○善なるもの=正しい道:八正道=正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
 ○道・・山の中の獣道のように、皆が自然に歩きやすい道:決して難しいものではない。

 「外界への欲望やむさぼりやいかりが、どれほど人を苦しめているかをよく知り、それらの煩悩を起こさないようにし、一切の煩わしいことにかかわりをもたなくなった人は涅槃の境地に達する。」   スッタニパータ       
 非苦行主義
 八正道(修行法)
 解脱(苦悩からの離脱)
 救済主義
 BC370  プラトンのアカデミア創立。  
BC369   この年(推定)、荘子、河南省に生まれる。道教の始祖の一人。(~286)
 BC350   北九州北部に稲作と金属器が到来。
 壱岐(いき)の島(玄界灘に浮かぶ・対馬の南)、「原の辻遺跡」:弥生時代の集落(約100ha)調査により、当時の東アジアの交易センターの役割を果たしていたことが判明(2009年)。東アジアで最古の船着き場跡等が発見された。出土した土器を調査した結果、船は、日本列島からだけではなく、大陸や朝鮮半島からも訪れていた事が判明。長逗留していた外国の人々の居留地があった。
 ここは、海流も速く、海の高速道路であった。日本と朝鮮の本格的な交流は、米を作る技術によって始まったと思われる。・・・弥生時代の中期だった。
BC300~200:スリランカに仏教伝える。  
 BC300    このころが弥生時代のはじまり  
 ~2200年前・・ 竹内均説:この頃に、北方系:北Ⅱ型・弥生人が華北からわたる。(黄色人種・モンゴロイド)
 BC278  屈原没。(BC340~278)
BC264~147  ローマ、イタリア半島統一。    新興国ローマと海洋国家カルタゴのシチリア島の覇権を廻る戦いから始まり、1世紀にもわたる戦争。地中海世界の一都市国家に過ぎなかったローマは、、ポエニ戦争により地中海の島々と沿岸地域の多くを属州として獲得。ローマ帝国が滅亡するまでの約500年間の地中海の覇権を決めた一戦となった。
BC259   秦の始皇帝:秦国の王の子 「政」として誕生。母は踊り子。 BC246年皇帝となる。
BC250   イギリスのストーンヘンジは、この頃のモノ。農耕社会によって建設された。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
  BC268~232:インド:マウリヤ朝・第三代アショーカ王在位  即位8年目に、インド東部の大国カリンガ国を攻め入る。その時の有様は、石碑に刻まれている。曰わく、「15万人がカリンが国から引き離され、10万人がその地で殺され、戦禍によってその数の何倍もの人々が死んだ。」と。 こうして、アショーカ王は、南インドを除く、インド初の統一国家(ヨーロッパ大陸と同じ程の広さ)を築いた。
 その後、アショーカ王は武力による政治から「ダルマ」:真理と法に基ずく政治に変えることを決意した。アショーカ王の政治理念を刻んだ石碑も発見されている。曰わく、「生き物をむやみに殺してはならない。父や母に従い、周りの人に礼儀正しく振る舞え。など・・。」 王は、道路整備、人畜などの病院建設、井戸、休憩所の設置など様々な社会事業や仏教経典の編集(結集)、布教師の派遣などに力を注いだ。・・・。王朝は、その後50年ほどで滅びるが・・・。
BC200~100:仏教諸派に分かれる。このころ南インドに仏教広まる 
BC221~210

始皇帝の中華統一 
 中国、燕(えん)・斉(せい)・楚(そ)・趙(ちょう)・魏(ぎ)・韓(かん)・秦(しん)の七国を平定・統一。 始皇帝即位。万里の長城を築く。最大傾斜60度。(始皇帝陵:高さ76m・350m四方・40年の歳月をかけて建設・延べ70万人の人びとによって造られた。未発掘ながら分析の結果、巨大な地下構造を探査した。東西168m南北141mの地下空間が存在。自ら占領した中国の国土の様子をそのまま地下に再現したと思われる。大量の水銀で海や川を、緑の大地は翡翠<ひすい>が敷き詰められ、天井には夜空に瞬く星空が描かれた。中央に置かれたのが、幾重にも囲まれた皇帝の墓室。莫大な財宝と共に横たわっている。兵<8,000体平均身長80cm>馬俑は、この皇帝寮の1.5Km東に配置されている。東は、始皇帝が滅ぼした国々の方向を向いている。以後、24人の皇帝によって統治された。BC210年、始皇帝死去  BC206年、秦亡ぶ。:2007年)
 
 この頃には、(しん)は4000万の臣民から税を取り立て、何十万もの兵からなる常備軍と10万以上の役人を抱える複雑な官僚制を賄った。ローマが地中海沿岸を統一。ローマ帝国は全盛期には最大一億の臣民から税を徴収した。この歳入が25万~50万の兵からなる常備軍や1500年後も使われる道路網、今日でも大がかりな出し物の舞台となる劇場や円形劇場の資金に充てられた。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
BC218~201  第二ポエニ戦争。  
縄文時代後期 BC500~200?    八升蒔遺跡(松平志賀町)、鵜ヶ瀬前遺跡、吉ヶ入A遺跡(岩倉町)、薬師ケ嶽遺跡(九久平町)、堂ノ根遺跡(九久平町)、鵜ヶ瀬台遺跡(鵜ヶ瀬町)、堂月遺跡(坂上町)、杉ケ入遺跡(坂上町)
 BC200  富士山第二回目の噴火。200年頃、九州北部で銅剣・銅矛・銅鏡・銅戈を、副葬した墓出現。青銅製の武器生産始まる。  仏教諸派に分かれる。このころ南インドに仏教広まる。
 BC169  アンティオクス大王、神殿を壊す。 BC167~164、迫害はじまりユダの教徒大量殺戮。 
BC148    BC149、カルタゴ滅亡。 BC149~146、第三ポエニ戦争。 
  BC142~63、ユダヤ、一時的独立。 
  BC110    司馬遷の父司馬談死去。父は、大史令であったが、武帝の行う封禅の礼に参加できなかった。
 遺言「余死すれば、汝は必ず大史と為らむ。大史と為らば、吾が論著せんと欲する所を忘るる無かれ」(大史公自序)。 
 BC106  キケロ【Marcus Tullius Cicero】 生まれる。  
古代ローマの政治家・哲学者。多才と雄弁とで政界に地歩を占めたが、アントニウスと対立、第二次三頭政治樹立後、追放され殺害された。法律上・政治上の論策のほか、哲学・修辞学・弁論術に関する多くのすぐれた論述や書簡は、後世ラテン散文の模範。シセロ。(106~ 43)  
 
この頃、ローマ共和国権力の頂点。以降、ローマの政治体制は崩壊して、一連の致命的な内線が勃発した。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
BC100~AD300    弥生時代中期 ~ 後期
BC100頃    東日本に稲作が波及。倭人の社会は百余国に分かれ、定期的に楽浪郡と交渉。
 このころ大乗仏教思想成立。インドのガンダーラ・マトゥーラ地方で仏像造立始まる。
  この頃、大乗仏教運動起こる。 「般若経」この頃より成立。 
BC100~0    このころ大乗仏教思想成立。インドのガンダーラ・マトゥーラ地方で仏像造立始まる。
 BC87~86   司馬遷没(59OR49歳)。 武帝(漢王朝第7番目)崩御
 BC57  新羅:初代王 赫居世王~AD4         LINK  新羅王朝のお話
 BC48   シーザーポムペイを倒し執政。 
 BC37   ヘロデ、エルサレムに入城、大王の名をもらう。  
BC6 ?    イエス誕生。(実は、イエスの誕生日は明らかではない「旧約聖書」犬養道子 新潮社) 中国の三大革命建設の帝王の一人:光武皇帝(BC6~AC57)生まれる。
BC5   「釈迦仏教」を開く。(BC463~383:中村元説)
  池田一号墳:猿投町池田、古墳時代後期のもの。横穴式石室。砂防工事の際に発見、この時に鎌倉時代の山茶碗発見=鎌倉時代に開口されたものと考えられる。(近くに藤山古墳群→池田に次ぐ有力な豪族の墓=須恵器、土師器ハジキ、勾玉、管玉、切り子玉や直刀など出土・舞木廃寺址などがある。)
BC3      伊勢国一の宮・猿田彦大本宮「椿大神社(おおかみやしろ)」建立。伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(たかやま)・入道ヶ岳、短山(ひきやま)・(椿ケ岳)を天然の社として太古の神代から祭祀祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第十一代垂仁天皇の御代27年秋8月に、「倭姫命やまとひめみこと」のご神託により、大神御陵の前方「御船磐座みふねいわくら」付近に天孫・瓊々杵(ににぎのみこと)・御姥(おんはは)・栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)を相殿として社殿を造営し奉斉された日本最古の神社。
 2000年前  中国の漢帝国。地中海のローマ帝国。キリスト教。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著 
10  超巨大な地震   この頃、(2012年に、2000年前と発表) 日本列島に大きな津波が襲った痕跡が地層にある。1707年の宝栄地震(津波13.5m)の4倍の超巨大な地震規模だった。南海・東南海・東海プレートの連動地震。
 30  イエス処刑される。 
 ~300頃   インドはクシャーナ朝・ガンダーラ仏
50      九州北部で小国が乱立。そのひとつが奴国。
 57     奴国王、中国(後漢)に貢ぎ物と共に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける。「漢委奴国王」

 『後漢s如書東夷伝』」・・・
                             建武中元二年、倭の奴国(なのくに)、
                 貢を奉じて朝賀す。
                 倭は韓の東南大海の中に在り。
                 山島によりて居をなす。
                 凡そ百余国あり。
                 武帝、朝鮮を滅ぼしてより、
                 使駅漢に通ずるは、
                 三十国ばかりなり。
                 国、皆王を称し、世々統を伝う。
                 其の大倭王は邪馬台国に居る。
 
                                                            <横長の用紙に縦書き>

 62   後漢の明帝の治世に佛教は中国に伝わった(中村元)。
 79  8/24・ナポリ湾の東に聳えるヴェスビオ山・火山噴火。噴火から12時間後、火砕流。奇跡的に生き残ったプリニウスの記録によって、後に詳細を知ることになる。ポンペイは19時間で灰に埋もれる。先ず、風向きでポンペイ、それから後に噴出した火砕流が、西のヘレクラネウム(当時の人口およそ4,000)が、軽石の雨に襲われた。火砕流は、12時間から24時間かけてヘレクラニウムの町を25mも堆積した。ヘレクラニウムの建物の中には遺骨は見つかっていない。すべての住民は避難したものと思われていた、しかし、一瞬のうちに超高温のガス(400~500℃)に曝された遺骨が、海岸近くのボート小屋で見つかった。住民の殆どは焼けて消えてしまったものと思われる。火砕流が発生してから10分程では、逃げることは不可能であった。20世紀初めから現在まで、発掘作業が続けられている。この調査によって、古代ローマの生活や文化を知ることができた。(後、1944年にも噴火。この時の噴火の79倍の規模。広島に落とされた原子爆弾の数百倍のエネルギーであった。)
 100  100年前後頃、中国に仏教伝わる。アビダルマ研究の展開。『阿毘達磨大毘娑婆論』(~150)。
 この頃になると、狩猟採集民の数は、主にオーストラリアと南北アメリカとアフリカに100万~200万人に減少している。農耕へ移行する前であった。「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著
 107     倭国王が使者を送り交わりを始める。倭国の統治者・帥升(すいしょう)等、生口(せいこう=奴隷)160人を後漢に献じる(『後漢書』)。倭国は,この地域の小国連合の一つに過ぎなかった。(通常の使節では10人ほどであったが、この頃より戦乱が拡大し大規模化したことがうかがわれる。)
 高地性集落出現。朝鮮半島から良質な鉄を入手するためには、北九州が唯一の窓口でだった。ここでの争いの目的は、鉄の入手権をめぐるものだった。
131     成務天皇の時代(131~190)、三河・尾張の国境定まる。(「松平町誌」)
 150  この時期、干ばつ
(大雨と干ばつが数十年単位で入れ替わる) 
   倭国大乱(「魏志倭人伝」より)。(稲作が盛んになり生活も安定し、人口増加。しかし、村同士の争いが生じ始める。) 2世紀後半、卑弥呼が王となり戦乱収まる。九州中心に鉄器。石器消滅。
 インドで、龍樹りょうじゅ(~250)生誕。=親鸞が七高僧に挙げる僧2。南インドに生まれ、哲学・天文・地理・医学などのあらゆる学芸を身につけた。やがて隠身術を身につけて友と城に忍び込み美女を心のままに情欲の犠牲にし、やがて”情欲こそ堕落”と、出家する。『中論』『十二門論』『大智度論』『十住毘娑沙論』も、彼の著述と伝えられる。この頃より『維摩経』成立。(~200以前) 彼の解釈した「法華経」の思想が、智顗にいたって中国の天台宗の教義となる(この部分、松原泰道「法華経人生論による」)。  
180   卑弥呼が即位した頃より、異常気象は収まっている。    この頃(~200)、卑弥呼が即位したとの説あり。??
 248年に没したとの記載を鑑みると、150年間の間、代々、卑弥呼は継承されたのか?
 この当時の平均寿命は30才。
184   黄巾(こうきん)の乱:。

 中国では,農民による反乱で漢王朝滅亡。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機と。
 この頃も、各地で異常気象が起こり、飢餓に苦しみ争いが多発。銅鐸に豊作を祈る人々が、新しい宗教の人々:原始の道教の人々:に追い詰められていたか。
  「倭人在帯方東南大海之中依山島為國邑・・・云々」
 「・・・魯遂據漢中、以テ鬼道教民 、・・・」
 張魯
(ちょうろ)と言う人が、鬼道によって民を導いていた・・・云々
                              ・・「三国志」より
  張魯とは、初期の道教を広めた人物であることから、ここで言う「鬼道」とは、初期の道教を示すことと言われている。道教では、、桃の実がお供え物として古来から使われている。   
 (2011.1)
 纒向(まきむく)遺跡から大量の桃の種が、そして、加熱された後に打撃された銅鐸の破片出土。
            
 (出土2009・兵庫県立考古学博物館館長 石野博信氏)
 189   中国・洛陽、漢王朝の武将が洛陽の王朝を乗っ取る。これを機に各地で勢力争いが始まる。
 この時に、曹操(35歳)、都を脱出。大規模な反乱を起こした農民を罰することなく配下に採用して兵士を増加させた。
196   曹操、各地を彷徨っていた漢王朝の皇帝を保護し自分の根拠地に迎え入れる。
 これによって、曹操に敵対する者を逆賊として討つことができるようにした。
 200

三国志
  曹操、黄河南部の二つの地域を占領した。黄河北部の袁紹が、曹操の軍事力を遙かに上回って抵抗を見せる。 2/袁紹、10万の兵で曹操に向かう。曹操の兵1万。
 兵力の少ない曹操は、奇襲や待ち伏せを用いてこれに立ち向かう。それにめげずに袁紹軍は曹操の根拠地・官渡に向かう。8/曹操軍は、追い詰められて官渡の砦にこもる。10/中国、官渡
(かんと)の戦い:曹操(46歳)のもとに、袁紹の武将が寝返って、重要な情報をもたらす。
 袁紹の兵糧部隊を残った兵の全て(五千)で壊滅する。曹操は、中国の北半分の多くの国を配下にした。まだ、南の長江が残っていた。
  この頃、『浄土三部経』のうちサンスクリット『仏説無量寿経』『仏説阿弥陀経』。初期の『華厳経』成立。
 208   長江は豊かな水運に恵まれた土地であった。それが孫権の強みであった。孫権には、年齢が近い武将・周瑜(しゅうゆ)が居た。曹操が長江を侵略し始めたときに、家臣達は降伏することを望んだ。しかし、周瑜(しゅうゆ)は反対した。曹操の騎馬力に対して、孫権の水軍は力を発揮した。
 12/中国、赤壁
(せきへき)の戦い:孫権 水軍に長けた孫権軍が曹操軍に大きな打撃を与えた。長江の北と南に分かれてしばらくにらみ合いが続いた後に、孫権軍から曹操に寝返りの文書。曹操はこれを迎え入れようとする。しかし、これは内部分裂に見せかけた孫権軍の奇襲攻撃だった。
 曹操の軍は、敗北を期した。これにより曹操の天下統一の勢いは後退した。
赤壁(せきへき)の戦い以降も曹操と孫権のにらみ合いは続いていた。
214    夏・中国、益州攻略:劉備 劉備は、貧しい人の為に戦わなければならないと言う高い志を持っていた。
 曹操は力・孫権は絆の人・劉備は義の人であった。劉備は農村の生まれ。幼い頃、劉備はわらじを売って何とか生計を立てる家計の助けをして育った。劉備は、戦乱の世を何とかしようと、自分が見込んだ武将を頼りに助っ人そして戦った。各地で飢饉に苦しむ人々に食料を配った。村を荒らす賊を厳しく取り締まった。このような劉備の元に関羽が従った。張飛が・諸葛亮(孔明)が集まった。
 これは、曹操にとって目障りであった。劉備の軍力は組織だった曹操軍とは歴然と差があった。しかし、数十満員の民達は、劉備の後に従った。劉備の人徳にすがる人々だった。「民衆は足手まといになる。」と進言した部下に、劉備は答えた。「大きな事をなす為には、何より民を基本にせねばならない。今、民が私を頼っているのにどうして見捨てることができようか。」と答えた。しかし、この結果曹操軍に追いつかれて壊滅的な敗北を喫した。民を救うことはできなかった。
220頃
~ 
この頃より中国・三国時代(魏・曹氏、呉・孫氏、蜀・劉氏) 280年頃まで 
 238


この年、魏の国は公孫氏(朝鮮半島の北)を襲い、同時に朝鮮の鉄の産地帯方郡も襲う。



倭の国では、
 伊都国という代代の王国が有り、また、狗奴国という邪馬台国と対立する国も有った。
「魏志倭人伝:三国志・魏書」に、”卑弥呼”の記載あり。
☆当時の倭人の風俗: 「魏志倭人伝」より
  • 男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
  • 男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
  • 着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
  • 兵器は矛、盾、木弓を用いる。
  • 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
  • 人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
  • 倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
  • 特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
  • 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
  • 女は慎み深く嫉妬しない。
  • 盗みはなく、訴訟も少ない。
  • 法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
  • 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
  • ・・From Wikipedia
 「魏志倭人伝」   BS放送大学講座特別講義編:「アーカイブス・シャーマニズム」より
 其國本亦以男子為王、
住七八十年、倭國亂、
相攻伐歷年、及共立一
女子爲王 名曰卑彌呼、
事鬼道、能惑衆、年已長大、
無夫壻、有男弟 佐治國。
 その国元また男子をもって王となす
止まること七八十年 (邪馬台国は男子が王様となって治めていた)
ところが倭国が乱れて内乱が起こった。どうしても収拾することができないので、
一人の女性をたてて女王とした、それを名付けて卑弥呼と言った。
 (卑弥呼は非常事態に出てきて王となった)
 卑弥呼は、鬼道を行ってよく衆を惑わした。(卑弥呼の性格はそういうシャーマンであった)
 年齢はすでに多く老女になっているんだけれども、夫はいなかった。一人の弟がいたがそれが国を治めた。(政治権力は男の弟が持っていたが、収拾がつかなくなると鬼道に使えた女王/卑弥呼が出てくると国が治まった。
  6/邪馬台国女王卑弥呼、魏に使者送る。魏の国は、卑弥呼に倭国の支配を認め、親魏倭王の称号を得る。この時に、鉄の刀二振りと銅鏡100枚が授けられた。
 このとき、魏明帝へ男生口4人、女生口6人の生口を贈る。『魏志倭人伝』 
(注::日本の資料では、”卑弥呼”と言う名の女王は記述されていない。)
 倭国乱れ、相(あい)攻伐(こうばつ)すること歴年(れきねん)、及(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。
 名づけて卑弥呼という。
 鬼道
(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑(まど)わす。 ・・原文は漢文 
 鬼道・・呪術                      「魏志倭人伝」より
  当時は、日常生活には不便な、標高100m程の山の頂に集落(高地性集落)を造り外敵から守った。丘の中腹には、幅5m程の堀がめぐらされていた。また、鉄製の鏃(やじり)などが多く出土している。ここには100棟を超える住居跡が見つかっている。戦いの時にのろしを上げたり、逃げ場として使われたのではないかと考えられている。(大阪市高槻市・古曽部遺跡)
   今汝(なんじ)を以(もっ)て親魏倭王(しんぎわおう)となし・・・・
 白絹五十匹、金八両・・・・
 銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を賜い・・・云々
                          「魏志倭人伝」より   原文は漢文
               *******************
 「恣可以示汝國中人、・・・」・・(私が王と認めたことを、)あなたの国中の人に示しなさい。
                          「魏志倭人伝」より 
 これは、卑弥呼が王と認められた証拠でもある。政治的な意味を持つ。
  「三角縁神獣鏡」が、近畿地方を中心として多く出土している。これは、畿内で製造されて、ここから各地に分散したことが判明。だが、卑弥呼の使った銅鏡とこの 「三角縁神獣鏡」が同じ時代の物か?が、判明されていない。
 卑弥呼誕生から間のないこの頃に、畿内に大きな勢力があった事は事実であった。

 「卑弥呼、30の国々を従え君臨した。」「鬼道能惑衆・・=神の声を聴き民を支配」・「無夫壻、・・・有男弟佐治国・・・=夫は居らず、弟の助けを受け、国を治めていた。」また、「王以来、少有見者、・・・=王になって以来、その姿を見た者は少ない。男子一人が食事を給仕し、その言葉を取り次いでいる。」と『魏志倭人伝』は伝える。

 「古事記」「日本書紀」に記載された「天照大神」のことか?日の巫女・卑弥呼は、宗教的権威をもち倭の国の女王であり、卑弥呼は生涯夫を持たなかった。)

 近畿地方に銅鐸、西日本に青銅製武器型祭器の文化圏成立。
 邪馬台国の場所は、九州・佐賀県の吉野ヶ里遺跡か? それとも、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡か?
 依然として、謎である。ここから見つかった甕棺墓
(かめかんぼ)には、首のない骨が納められていた。腕の骨にも傷跡があり、戦いの跡が伺われる。

(2009年&2010年・・・中国の記述と、遺跡の年代にズレがあるので、今後の研究結果が期待される。)
 243          魏の少帝へ生口(奴隷又は特別な技能を持っている者・集団などという説もある)を献じる。
 248  卑弥呼の一族の娘・台与(とよ)OR壹与が女王となる。   卑弥呼没。247&248年、連続して二度の日食が起き、昼でも暗い時間があったことになる(国立天文台 相馬充氏)。天の岩戸神話はこの現象にちなんで語り継がれたのか?
 247年、太陽は日食しながら没した。248年には、太陽が日食の状態で昇り始めた。
 最近の科学でそのことが判明した。(2009年11月)

 卑弥呼と天照大神とが同一人物と思われる所以(ゆえん)である。
 徳島県の古墳の上に建てられた天石門別八倉比売
(やくらひめ)神社は、卑弥呼がご祭神だと言う(正一位)。
 当神社の古文書によると『神良は本殿の三十間登りし五角の御領・・』、即ち、「卑弥呼の墓は、八倉比売神社の本殿から30間(約55m)登った五角形のお墓」だと記されている。ここにやはり五角形の石積みされた祭壇が実在している。

 壱与が女王となる。生口(奴隷又は特別な技能を持っている者・集団などという説もある)30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。
青銅製武器型祭器の消滅。
 252  唐僧鎧「大無量寿経」を漢訳する。  
 266 弥生時代の後期    豊田市王滝町に後期弥生人の遺跡(王滝町)
 女王壱与、晋(シン)に使者送る。首長墓が各地に普及。
286   「正(しょう)法華教」、中国語に訳される。大法輪
 300  如来蔵思想、唯識思想の発展(~400)   300~600  古墳時代 この頃から前方後円墳が築かれはじめる(北は岩手県、南は鹿児島県まで、広く遺跡が発見されている。しかし、規模の大きなものは、ヤマトを中心とした近畿地方に偏っている)。
  奈良・三輪山盆地の箸墓古墳・全長275m、中期・五世紀には巨大化・大阪府の大山(だいせん)古墳(全長486m・日本最大級・この周囲にはおよそ40以上の古墳が集まっている=百舌(もず)古墳群。)、誉田山(こんだやま)古墳を中心に古市古墳群がある。大規模な前方後円墳は、全国に分布している。九つの大型古墳と数多くの小型古墳の、埼玉県・埼玉(さきたま)古墳群。
 五世紀初めに造られた岡山県南部(旧吉備国)の造山
(つくりやま)古墳は、長さ350m。全国で4番目に大きな古墳である。その近くにある勝負砂(しょうぶざこ)古墳からは、2007年に死者を納めた石室が見つかった。ここは盗掘に合わずにいて、鉄の鏃(やじり)や鎧(よろい)などが見つかった。この鎧は、近畿地方の物と同じ形式であった。 
 313    仲哀天 皇。   猿投神社創建(当社発行の解説書による)  猿投神社創建と、伝えられる。大碓命(おおうすのみこと)、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)をお祭りし、山麓の本社、頂上近くの東の宮、西の宮の猿投三社大明神が祀られている。
 キリスト教,公認さる(コンスタンティヌス、キリスト教を公認)。 高句麗、南の楽浪郡を滅ぼす。 その南に並んで、西に百済・東に新羅台頭。 更に、その南に任那(みまな:カヤ)国あり。 やがて、高句麗は、更に新羅と任那を攻撃する。 
320   インドで、天親てんじん(世親せしん~400)生誕。=親鸞が七高僧に挙げる僧二。兄の無着菩薩から小乗の天親に「大乗を誹るな」と、諌められ、大乗を進められた。 讃:「安養浄土(あんようじょうど)の荘厳(しょうごん)は唯佛与佛(ゆいぶつよぶつ)の知見なり 究竟(くきょう)せること虚空(こくう)にして 広大にして辺際(へんさい)なし」・・(阿弥陀仏の浄土のうるわしさは、極めてすぐれているので、ただ佛と佛だけが知りうるものであって、菩薩といえども知ることはできない。浄土の広大なことは、虚空に似て無限大である。):松原泰道・意訳  
   320-550   インドではグプタ朝。バラモン階層の復活。ヒンドゥー教徒。
 344   鳩摩羅什(くまらじゅう~413)生まれる。←注:350~409年説もあり・・・漢訳した主な経典は、『坐禅三昧経』3巻、『阿弥陀経』1巻、『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻)、『妙法蓮華経』8巻、『維摩経』3巻、『大智度論』100巻、『中論』4巻。
 一部の経典において、大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、玄奘三蔵による訳経を「新訳(しんやく)」と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳(くやく)」それ以前を古訳と呼ぶ。著書に、『大乗大義章』3巻(廬山慧遠との問答集) )
 346  百済の統一。 
 356       この頃より前方後円墳が発生。
 新羅の統一。   300年後半、中国から朝鮮に仏教伝わる。 
 364  百済は、この年に任那と関係を結んだ。
366    日本書紀によれば、「大和政権が百済に初めて使者を送った」とある。
 百済は、この使者に鉄てい(鉄の延べ板)40個及び五色の絹で作られた高級な織物を与え、今後も交流をしたいという意志を示した。」・・・このように鉄を中心とした先進文物を倭に与え、高句麗との戦いに倭を引き込んだと思われる。(この頃、倭には鉄を鋳造する技術はなかった。)
 369 太和4年、泰和4年。    石上神宮(奈良県天理市)所蔵の国宝、七支刀(全長74.9㎝)作られる。後、高句麗に対抗するために百済が倭と友好関係を持とうとして送ったと思われる。銘文:表「泰和4年5月16日、丙午の正陽、百錬鉄、七支刀を造る。□百兵を辟(さ)く。供供たる候王を宜しくす。□□□□作。」、裏「先世以来、未だ此の刀有らず。百□□世□、奇生聖音(普)、故に倭王旨の為に造り、後世に伝示せんとす。」
  日本書紀によれば、この年「大和政権が任那(カヤ=ミマナ)地域を平定し、百済も服属させた。」とある。しかし、韓国の歴史学者は、「これは、日本政府ではなく、百済が任那を平定したのではないか?と思う。こう考えると、当時、倭と百済の間で直接交渉できる立場が築かれていたと思われる。百済の、当時の最大の敵は高句麗だった。」と、見解を述べている(2009年)
 372      百済王が倭王に太刀を献上(石上神社の七支刀)

 この頃より、鉄製の武具がヤマトに入り、やがて多くなる。
  高句麗に仏教伝来。 百済は、この年に中国南朝とも国交を開始。これは百済が高句麗と対抗するために、警護を強化するためであった。中でも倭は重要な要であった。
384    百済に仏教伝来 
 391     朝鮮半島に出兵。倭軍、百済・新羅を破る。
 397  広開土(こうかいど)王(中国南朝)の碑文(高さ6mの石碑)に、この年、「百済が倭を引き込んだ」と記されている。
 399  法顕(399~414)、インドに求法「佛国記」。 
 400    氏性制度と部民制成立。
   高句麗の攻撃により、新羅より撤退。鳩摩羅什(くまらじゅう~413)、長安にきて中観仏教を伝える。『維摩経』『法華経』の漢訳作成。
 世親(344~413)『阿毘達磨倶舎論』『唯識二十・三十論』等を著述。
402    鳩摩羅什(くまらじゅう~413)、「阿弥陀経」を漢訳。世親活躍する(400~480頃)。
 404     倭軍、帯方郡に出兵。高句麗に敗北。
 406      403年からこの年まで、百済から多くの人が流入。(百済、高句麗により壊滅に瀕す。)この頃より、万葉集が詠まれる。
  400年代、スリランカ経由で仏教僧がインドネシアへ。
 「妙法蓮華経」中国語に訳される。[大法輪]
 413     倭国、東晋に貢ぎ物を献上。
 415  史上初の長年迫害されていたキリスト教による魔女狩り(14~17世紀)。 ローマ帝国が東西に”東方正教会”と”ローマカトリック”に分裂した頃、トルコ・インスタンブール(コンスタンティノーブル)の商家生まれの、キリスト教に否定的であった女性、ヒュパティア(天文学者・哲学者)、晩餐会に豚肉を食べなかったという理由で、異教徒と見なされて投獄。精神を病んで出所。以後、キリスト教徒による迫害は1000年以上続いた。 魔女とは、悪魔と契約し悪魔を崇拝し見返りに悪魔に力を与えられたもののことであった。魔女と見なされたものは、火あぶりや串刺しなど、残虐な刑が待っていた。
421     倭王讃、宋に朝貢、朝廷から称号を受ける(宋書)。 
  華厳経、中国で漢訳される(80巻)。 
424    「観無量寿経」、浄土宗、中国宋の時代(~453)に漢訳される。(432年との説もあり)
438     倭王珍、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(宋書)。
 この頃、「倭の五王」は、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)であった。                     
「宋書倭国伝」   より      
 「興死して弟武立ち、自ら使持節(しじせつ)都督(ととく)        
倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)七国諸軍事、 
安東大将軍、倭国王と称す            云々 」  
 「興が死んでから弟の武が立った時に、朝鮮半島や諸国の軍事権を持っていると主張している。」                 注:原文は漢文  
 ※ 五世紀当時の東アジア ※
 倭の国を取り囲んで、小国が集まった加羅と加羅の東北に新羅・北には百済・そして北に高句麗、そして中国には西に宗、宗の北には北魏が勢力を持っていた。
 新羅と百済は相争っていたが、その争いに時々倭の国が介入していた。倭の国は、当時、百済の文化を取り入れていた。
 日本の中でも大きな力を持つに至ったと考えられる。 
  須恵器の生産始まる。 
443     隅田八幡神社(和歌山県橋本市)人物画像鏡(金石文は日本最古の漢字使用例)造られる(一説には503年もある)。  倭王済、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(宋書)。 
456  この年から雄略天皇(~479)   この年から第21代・雄略天皇(~479) 「全国的な統一はおそらく雄略朝あたりに、ほぼ完成しておったかと思うのです 云々」 ・・・ From 「文字講和  第九話 原始法について」 白川静著
460   雲岡・竜門の石窟の石仏制作。「大乗起信論」。  
462     倭王興、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(宋書) 
471     稲荷山(埼玉県行田市:1968年出土)古墳出土鉄剣、このころ造られる(一説には、531年説もある)。獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう=雄略天皇)なる銘文が見られるところから、大和政権の支配が東国まで及んでいたと思われる。
 ※ 銘文 ※       一部分
「 ・・・其の児
(こ)、名は乎獲居(おわけ)の臣
 世々杖刀人
(じょうとうじん)の首(かしら)と為(な)
 奉事
(ほうじ)し来(きた)り今に至る。
   獲加多支鹵大王
(わかたけるだいおう)の寺、
 斯鬼
(しき)の宮に在(あ)る時、
 吾
(われ)、天下を左下(さじ)し、此(こ)の百練(ひゃくれん)
 利刀
(りとう)を作ら令(し)め ・・・・  <原文は115文字の金文字・漢文>
  ○ 乎獲居(おわけ)は、当時の豪族たち。・・地方の有力者。
  ○ 杖刀人
(じょうとうじん)・・武力に頼る人々
  群馬県高崎市:三ツ寺Ⅰ遺跡は、当時の豪族の屋敷跡である。
     
(五世紀後半から六世紀はじめの頃のもの)
 「かみつけの里博物館」に模型展示
 周囲に堀を巡らせた館は、86m四方と推測されている。堀の斜面は石で覆い柵を巡らせた中に掘っ立て柱の大きな建物が建ちその近くには竪穴住居が
三棟ならんでいた。
 堀をまたいで少し離れたところから水を引いていた。日本で最古とされる水道橋であった。水道は石を敷き詰めた特別な区域に引かれ、ここで水を用いた祭司・祭りや儀式が行われたのではないかと推測されている。
 祭司に使われたと思われる玉の道具や水を入れたらしい土器の壺が見つかっている。
 水道橋に使われた木の樋
(とい)も出土している。
 更に、ふいごの一部やるつぼも出土し、金属の加工の跡がうかがわれた。
 この遺跡の近くには、巨大な前方後円墳「八幡(はちまん)塚古墳」があり、この中から石棺も出土している。三ツ寺Ⅰ遺跡を支配した豪族の墓であったと思われる。 
476   ローマ帝国ゲルマン王国の攻撃によって滅亡中国で、曇鸞生誕(~542)。親鸞が七高僧に挙げる僧4。北魏の五台山で修業。50代に洛陽であう三蔵(シルクロードを通って多くの経典を携えて来て、ここで中国語に翻訳中)から、観無量寿経を示され浄土の教えに帰し、仙経を焼きすてる。 
478     倭王武、宋に上表文、六国諸軍安東大将軍倭王の号を授かる(宋書)この頃から,九州に装飾古墳が作られはじめる。・・石人山古墳・井寺古墳・千金甲古墳・王塚古墳・日ノ岡古墳・チブサン古墳など。
 倭の国・武王の上奏文より
 「・・・封国偏遠作藩于外・・・ ほう国は偏遠にして藩を外になす・・・」
 我が国は中国の属国にして、辺境の地にございます云々・
 当時は、漢字に精通した中国人がブレインとして従っていた。
487   慧可(えか)生まれる(~593)。中国の隋の時代。後に、達磨の禅を継いだ。禅宗の第二祖。慧可に学んでその法を得た人が僧粲(そうさん)・第三祖。


参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 17 「松平郷」  豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868~) 19 「松平郷館」   豊田市
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1~9 NHK
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
13 「日本史事典」  岩波書店 27 古代世界への旅  Newton別冊   
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会  28 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 河出書房 ユヴァル・ノア・ハラリ著   
     
                         
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