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   入鹿暗殺の新事実                         

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 ミステリー大化改新  〜蘇我入鹿暗殺(645年)の実像〜                04/12/9放映
                                             遠山説 → 入鹿に山背大兄王を討たせる説


 従来の日本書紀の解釈:「入鹿が天皇家にとってかわるために、山背大兄王を暗殺した」と言う従来の説を覆す。
また、1年半の後の中大兄皇子の入鹿暗殺も別の動機が考えられる。
 そして、大化の改新のこれまでの見方が大きく変わることになる。
・・・・ 解説者は述べた。
 いまだに我が日本人が崇拝して止まない”聖徳太子”と、無視できない、忘れられない”十七条の憲法”だ。
 この時代の太子の業績を側面的に知るには、その前後の社会の動きを知ることも重要なことである。
 ほどなくして、聖徳太子一族は滅んでしまった。
 この前後には、政治というドロドロとした波がうねってざわめいていた。
 天皇家一族。蘇我氏・中臣氏・・・、そして地縁・血縁の人間による勢力抗争。
 ヒトが権力を持つと、やがて、そこに”腐敗”の臭いがしだすものだ。
 
 河の小魚が群れて泳ぐように、小さきモノは群れたがる。所詮、人間、群れたがるモノだ。
 一つの国に政治や経済の勢力抗争が、尽きること無く今も続いている。
 いのちの進化の過程では、群れると都合が良かった。
 この習性があったからこその今の人類!?

 (政党も企業も群れると都合良く、個人の責任をフッと転嫁して逃げやすい。)
 過去の戦争を人ごとのように、簡単に批判することはできない。

 過去の歴史を直視して、ここから学び取らなければならない。  ・・・・苦縁讃 

☆ 聖徳太子の子は山背大兄王
(やましろのおおえのおう)・・・飛鳥京の建設の大きな障害だった。
 聖徳太子は、飛鳥の西北に位置する斑鳩(現奈良県班場町)に、斑鳩寺を中心とした都を造った。
 聖徳太子の一族は、上宮王家はこの斑鳩を拠点としていた。
 上宮王家と呼ばれてこれは天皇とは別の系統であった。

 山背大兄王(やましろのおおえのおう)が天皇になれば、都が斑鳩へ移る可能性があった。そうなると、皇極天皇の飛鳥京建設の夢は絶たれることになる。
☆ 皇極天皇の跡目を継ぐ三人の男
@ 皇極天皇の弟  軽(かるの)皇子(おうじ)・・・推定47才
A 蘇我のいとこである古人(ふるひとの)皇子(おうじ)・・・推定30代
B 皇極天皇の息子 中大兄(なかのおおえの)皇子・・・ まだ若すぎた。
  ○ 当時、後継者選びは、直系であるかどうかよりも経験や年齢が重視された。施政能力や君子としての威厳が問われたのである。

☆ 山背大兄王
(やましろのおおえのおう)暗殺の強い動機があったものは・・・
@ 蘇我入鹿のいとこである古人(ふるひとの)皇子(おうじ)・・・推定30代 
A 皇極天皇の息子 中大兄(なかのおおえの)皇子・・・ まだ若すぎた。
B 皇極天皇本人も、山背大兄王(やましろのおおえのおう)暗殺の動機があった。
  ○ 皇極天皇は都を飛鳥に留め、飛鳥京を強く望んでいた。
    当時中国は、唐の時代。統一王朝を長安に定めその権威を内外に示していた。
    皇極天皇は唐の都にならって明日香村に都建設を設計していた。
    宮殿・寺院・迎賓館などが規則的に配置される都として進められていた。
 補:山背大兄王暗殺のこと
 
用明帝とその子聖徳太子、その妻の間人皇后、太子の妃(妃は4人を数える)。そして、山背大兄はじめ、多くの子孫が聖徳太子にはあった。子や孫はすべて、斑鳩の地で非業の死をとげたのである。聖徳太子の一族二十三王が、罪なくして殺された。この二十三王の中には、当時相当な歳であった太子の弟の殖栗王(えぐりのおおきみ)や茨田王(まんたのおおきみ)や、まだほんの子供であった山背大兄の子供、すなわち太子の孫の麻呂古王(まろこのおおきみ)や尾治王(おわりのおおきみ)等も含まれていたであろう。
 この殺害の現地部隊長は巨勢太古
(こせのとこたこ)である。しかも、この殺害には軽皇子、後の孝徳帝も一枚加わっていた。・・とすると、軽皇子に近づいていた天才的な宮廷政治家の藤原鎌足も蔭で謀を巡らしていた可能性が高い。
                     「塔」 梅原猛 集英社 より

☆ この三人の中に、入鹿をして山背大兄王
(やましろのおおえのおう)暗殺を行わせた人物はいるか。
  ○ 日本書紀に寄れば、 「・・・・蘇我臣入鹿独(ヒトリ)・・・・」と、 入鹿が一人で企てたように書いてある。
           『()内も書紀の通り』

☆ 独(ヒトリ)の解釈について   学習院大学教授  遠山美津男
推古天皇の遺言に従って、入鹿の父・蝦夷(えみし)がその勤めを果たして、次期天皇に成るように決めたことが記されている。  ・・・と、解釈できるのである。
「蝦夷
(エミジ)(ナリテ)大臣(オホイアウキギミ)(ヒトリ)・・・・ 欲定嗣位(ヒツギノミクライヲサダムトホッシ)・・・」
 @ 独(ヒトリ)の文字の解釈・・・・ 「”独(ヒトリ)”とは、独断とか私意と解釈すべきではない」と、氏は解釈する。
大王(おおきみ):天皇の命令を受けて、大臣(おおまえつきみ)が大夫(まえつきみ)=部下に諮(はか)らずに実行することを意味するのである。
      そう考えると、「天皇の命令を実行する」と解釈できる。

  ・・・と、すると、皇極天皇本人が命令して入鹿をして暗殺を実行させたと解釈することも出来る。

    これは入鹿暗殺の1年半前のことであった。

☆ 従来の日本書紀の解釈:
「入鹿が天皇家にとってかわるために、山背大兄王を暗殺した」と言う従来の説を覆す。
また、1年半の後の中大兄皇子の入鹿暗殺も別の動機が考えられる。
 そして、大化の改新のこれまでの見方が大きく変わることになる。

☆ 入鹿暗殺の動機は何か?真の目的は何であったのか?
○ 皇極天皇は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を暗殺した入鹿 を咎めず罰しなかった。
○ その上、義理の息子である入鹿のいとこ古人皇子を後継者にした。
○ これによって、皇極天皇と入鹿は、強い絆で結ばれることになったのである。
 皇極天皇は、飛鳥京建設のための蘇我入鹿と同盟を組んだ可能性が見えてきた。

☆ この時点で、皇極天皇と次期天皇の候補となった古人皇子には、
  蘇我入鹿暗殺の動機はなくなった。
 その一方で、皇極天皇の弟軽皇子(かるのおうじ)は、この時点で次期天皇の後継者候補から完全に脱落した形となった。
 しかし、候補となった古人皇子は年下の上血の繋がりもない。天皇の弟・軽皇子
(かるのおうじ)に取っては屈辱的なことであった。
 
   この時に、軽皇子
(かるのおうじ)に入鹿暗殺の動機が生まれたのである。
   しかし、日本書紀には彼が入鹿暗殺に係わったという記述は一切無い。
   同書には、約一ヶ月後(正月)に在る人物が軽皇子
(かるのおうじ)を訪れたという記述がある。
   その人物は、日本書紀に”暗殺の首謀者”として登場する中臣鎌足だった。
   軽皇子
(かるのおうじ)はことの他喜び、自分の后に中臣鎌足を手厚くもてなすよう命じた。
   このもてなしに感動した鎌足は、皇子に意味深長な言葉を投げかけたと記されている。それは
    『誰能不使王天下・・・』日本書紀 
             「軽皇子が、天下の王となるのに誰が逆らえましょう」 だった。
日本書紀によると・・・
 「及(すなは)ち、寵妃(めぐみたまふひめ)阿倍氏(あへし)を使(つか)ひたまひて、別殿(ことどの)を浄(きよ)め掃(はら)へて、新(にひ)しき蓐(ねどこ)を高く鋪(し)きて具(つぶさ)に給(つ)がずといふこと靡(な)からしめたまふ。敬(ゐや)び重(あが)めたまふこと特に異(け)なり」

この日本書紀の記述は、入鹿暗殺の首謀者とされる鎌足と軽皇子との関係を、暗に物語っていると読み取れる。
   
○ 鎌足が蘇我氏を怨む理由は、
@


 中臣氏は代々天皇家の祭事を司る神官として仕えていた人物で、仏教保護を前面に押し出す蘇我氏が天皇家と係わりを深めると、中臣家には高い地位を与えられなくなっていたのである。
 そこで、両者には対立関係があった。日本書紀には入鹿を非難する言葉が書かれている。
  「入鹿は、天皇と臣下の間の秩序を破り国家を我がものとする野望を抱いている。」中臣鎌足の言葉
A




 中臣鎌足は、打倒入鹿を目差し軽皇子に近付いたと考えられる。
 そのことを裏付けるかのごとく、その後の鎌足の行動の陰に軽皇子の存在が見え隠れする。
                   
 ◇ 先ず、中大兄皇子に近づく。
  日本書紀の記述によると、「ある日蹴鞠をしていた時に中大兄皇子の靴が脱げ、鎌足の足下に飛んできた。
  鎌足はこれを拾い皇子に差し出した。
   この出会いをきっかけに二人は絆を深めた。」と。

☆ 軽皇子と鎌足が中大兄
(なかのおおえの)皇子に近づいた理由とは、・・・
 当時の皇子とか親王たちが実際の戦場に出るとか、相手に刃を向けることはほとんどしなかったことであった。
 従って、中大兄
(なかのおおえの)皇子を「斬り込み隊長」としてではなく、軽皇子の重大な局面に当たって少しでも自分の身内に協力者が欲しいという理由からであった。
 その為に鎌足が動いたと推察できる。

☆ 鎌足は、蘇我倉山田石川麻呂
(そがくらのやまだいしかわのまろ)に近づく。
 鎌足は、皇族・中大兄(なかのおおえの)皇子と石川麻呂の娘を結婚させることを条件に蘇我氏の有力な人物を味方に付けた。

☆ 更に、鎌足は入鹿暗殺の実行者として、二人の人物と接触している。
◇ 一人は・・葛城 △犬飼連網田(かずらきのわかいぬかいむらじあみた)    注:△=禾編にしんにょうのない進

◇ 今一人は・・佐伯連子麻呂
(さえきのむらじこまろ)
 鎌足が接触した人物たちには意外な接点があった。鎌足が中大兄(なかのおおえの)皇子以外に接触した人物には意外な接点があったのである。
@ 鎌足が族長を務めた中臣氏は、今の大阪一体特に地方に多くの支配地をもっていた。(河内・和泉)
A 石川麻呂は、河内の石川および山田郡を支配していて、その支配は和泉地方にも及んでいた。
B 暗殺の実行者、子麻呂と網田の二人は、河内、和泉地方の出身だった。
C そして、この地方の中心に軽部郷(軽皇子の宮)軽皇子が居たのである。

☆ 暗殺を実行した豪族たちは、軽皇子のいた河内・和泉に基盤を持つ者だった。
 暗殺を実行した豪族たちは、軽皇子のいた河内・和泉に基盤を持つ者だった。
 地縁を以て結びついていた。
 その土地の出身ではなくとも、その地の豪族・有力者に名前をもらうことによって、自分の地元での権威を高める等が行われた。
 そんな点を重視してみると、入鹿暗殺の実行者は中大兄皇子ではなく軽皇子だった可能性が高い。・・・・と、遠山氏は言う。
○ しかし、軽皇子と鎌足が計画した入鹿暗殺は皇極天皇への反逆と取られかねない大きな賭であった。
   軽皇子にとって、もし、入鹿暗殺に失敗すれば、天皇になるどころか反逆者として、
  蘇我入鹿によって逆に命が奪われる危険があった。
   何故、そんなに危険な暗殺を決意したのであろうか?
          
○ 暗殺まで、後1年3ヶ月。
中臣鎌足の即席を描いたもの:「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」
=室町時代に作成されたもので、登場人物の衣服はその時代の当時のものとは異なっているが、・・。
  = 談山
(たんざん)神社蔵(:鎌足が祀られている神社) によると、入鹿暗殺の場面がある。
入鹿討たれ首がはね飛ぶ絵
剣を振りかざす中大兄皇子
左に中臣鎌足
右端には、本来実行役をするはずであった二人の男
御簾の陰に皇極天皇

陰の首謀者:軽皇子は描かれていない。(皇族は直接手を下さない=遠山説)
・・。では、何故、中大兄皇子が描かれているのかが疑問となってくる。
これを説くことが、入鹿暗殺の真の目的の解明に繋がりそうである。

☆ 入鹿暗殺の真の目的は何か?
○ 軽皇子が鎌足と暗殺に関与していたとすると、その最大の障害は入鹿が軽皇子の実の姉・皇極天皇と手を結んでいたと言うことである。
 この頃皇極天皇は、飛鳥京の建設を本格的に進めようとしていた。中国の長安に習った大規模な都建設によって、天皇家の権威を内外に示そうとしたのである。
 当時、天皇家には部民
(べのたみ)といわれる職人集団が居たが、飛鳥京の建設にはこれだけでは到底間に合わなかった。
@







 日本書紀には、
 『東限遠江西限安芸発造営丁・・・・・』と、民を動員したと記されている。
「東は遠江
(とおとうみ)、西は安芸(あき)の国に限って宮室を造営する丁(よおろ)を徴発せよ」・・・との、皇極天皇の詔 である。これは、現在の静岡県から広島県に渡る広大な地域から労働力を集めようとしたのである。
 しかし、思うように人は集まらなかった。
 当時の日本は、豪族がそれぞれの領地を支配していて、天皇といえども豪族の許可無くそれぞれの地域から民を働かせることは出来なかったのである。
 皇極天皇の都造りは最初から行き詰まった。この時、皇極天皇と協力体制にあった入鹿は、何をしていたのであろうか?
A






 もともと飛鳥を基盤に強大な権勢を誇っていた蘇我氏は、最先端の建築技術を持つ渡来人の集団を配下に治めていた他、広大な領地から多くの労働力を自由に動員することが出来た。
 にもかかわらず、自らの息の掛かった古人皇子が太子になると、飛鳥の都を見下ろす、甘かしの岡に自分の大邸宅を構えた。
 広大な邸宅の周囲には、武器庫が設けられ武人に警護させた。
 更に屋敷が完成すると入鹿はその門を谷宮門
(はざまのみかど)と称し、子供たちを”王子みこ”と呼んだと言われる。
 ”みかど”は宮廷の門のことを表し、”みこ”は皇族の呼称であった。入鹿は、自分の邸宅を王宮に、息子たちを皇族になぞらえたのであった。
 この頃の日本書紀には、入鹿が都の建設に協力したという記述はない。
 このような入鹿の振る舞いが皇極天皇との同盟関係にひびを入れ、暗殺をねらう軽皇子に有利に働いたのではないかと思われる。
B




 そんなときに軽皇子が、姉である皇極天皇に近づいた。と言うことは大いに考えられることである。
 軽皇子は皇極天皇に有効な手みやげを持って近づく。それは「改革の実行」であった。
 改革は、一般に公地公民と言われるが、大王が豪族たちを介さないで直接土地を支配する制度である。
 豪族を介さないで、直接民衆を把握し彼らから労働力の徴発も自由になる。皇極天皇は、軽皇子の公地公民の改革に大いに心を動かされた。
 軽皇子は、後に即位し公地公民の改革を実行した。(孝徳天皇の政権。)更に、
  ○ 入鹿暗殺当時の状況からも、軽皇子の関与が裏付けられると言う。
@





 その日(645年6月12)は、朝鮮半島の国々から送られてきたものを天皇に捧げる儀式が執り行われることになっていた。
 主な出席者:
  皇極天皇
  大臣として国政を預かる 蘇我入鹿
  入鹿の後ろ盾てで太子となった古人皇子
  貢ぎ物を取り扱う役の 石川麻呂(蘇我氏だがの中臣鎌足の仲介で軽皇子と手を組んだ)
A


 中臣鎌足と中大兄皇子は儀式の輪のすぐ脇(宮殿の床下)に身を隠して機をうかがっていた。
  更に、軽皇子と地縁のある子麻呂と網田が控えていた。
    出席者は蘇我入鹿と古人皇子以外、ほとんどが軽皇子と地縁・血縁で結ばれていた。
☆ 儀式が始まる。西暦645年6月12日。入鹿暗殺。
『麻呂進而読唱三韓表文・・・・』「倉山田麻呂臣進みて三韓の表文を読み唱(あ)ぐ・・」
@  計画では、ここで子麻呂と網田が進み出て入鹿を斬るはずであった。
 しかし、刺客の二人は怖じ気づき出ることは出来なかった。
A
 読み上げは終わり日かずいていた。石川麻呂は震え出す。
『何故掉戰・・・』 「なにのゆえかふるえわななく・・・」
B
 「何故震えているのか?」・・・不審に思った入鹿が尋ねる。
 『恐近天皇不覚流汗・・』 「天皇のお側に近いことが恐れ多く不覚にも汗が流れたのです」と応える。
C

 その時、物陰から飛び出し、入鹿に襲いかかる者が居た。
 中大兄皇子であった。斬られた入鹿は皇極天皇にこう叫んだ。
 『臣不知罪』「やつこ 罪を知らず」
         ・・・私に何の罪があるのでしょうか?の意
D
 この有様を見た古人皇子は、一目散に自分の宮殿に逃げ帰った。
『入臥内杜門不出』 「臥内
(ねやのうち)に入り 門(かど)を杜(さ)して出でず」
E  始終を見ていた皇極天皇は、事件に係わった者達を一切処罰することはなかった。
☆ 入鹿暗殺のときの日本書紀の記述 ☆
 倉山田麻呂臣、表文(ふみ)を唱(よみあ)ぐること将(まさ)に尽(つ)きなむとすれども、子麻呂等の来(こ)ざることを恐(おそ)りて、流(い)づる汗身(あせみ)に浹(あまね)くして、声乱(こえみだ)れ手動(てわなな)く。
 鞍作臣
(くらつくりのおみ)、怪(あやし)びて問(と)ひて曰はく、『何故(なにゆえ)か掉(ふる)ひ戦(わなな)く』といふ。山田臣(やまだのまろ)、対(こた)へて曰はく『天皇(すめらみこと)に近(ちか)つける恐(かしこ)みに、不覚(おろか)にして汗流(あせい)づる。』といふ。
 中大兄、子麻呂等に、入鹿が威
(いきほひ)に畏(おそ)りて、便旋(めぐら)ひて進(すす)まざるを見て曰はく、『咄嗟(やあ)とのたまふ。即(すなは)ち子麻呂等と共(とも)に出其不意(ゆくりもな)く、剣(たち)を以て入鹿が頭肩(あたまかた)を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。
 入鹿驚きて起
(た)つ。子麻呂、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、其の一つの脚(あし)を傷りつ。入鹿、御座(おもと)に転(まろ)び就(つ)きて、叩頭(の)みて曰(まう)さく、『当(まさ)に嗣位(ひつぎのくらい)に居(ましま)すべきは、天子(あまつみこ)なり、臣罪(やつこつみ)を知らず。乞(こ)ふ、垂審察(あきらめたま)へ』とまうす。
 天皇大(おほ)きに驚きて、中大兄(なかのおほえ)に詔
(みことのり)して」曰(のたまは)はく、『知らず、作(す)る所(ところ)、何事(なにごと)有りつるや』とのたまふ。中大兄、地(つち)に伏(ふ)して奏まうして曰まうさく、『鞍作(くらつくり)、天宗(きみたち)を尽(つく)くし滅(ほろぼ)して、日位(ひつぎのくらい)を傾(かたぶ)けむとす。豈(あに)天孫(あめみま)を以て鞍作に代(か)へむや』とまうす。
 即
(すなは)ち起(た)ちて殿(との)の中(うち)に入りたまふ。
 佐伯連子麻呂・雅犬飼連網田
(わかいぬかいのむらじあみた)、入鹿臣を斬(き)りつ。
 是(こ)の日に、雨下
(ふ)りて潦水庭いさらみづおほばに溢(いは)めり。席障子(むしろしとみ)を以て、鞍作が屍(かばね)を覆(おほ)ふ。
☆ これが、大化の改新の発端となった。
次期大王をねらう軽皇子と飛鳥京を造りたい皇極天皇の利害が見事に合致して実行された事件であった。
その際に、中臣鎌足、中大兄皇子を巧みに利用して行った用意周到な計画であったと言えよう。
@

 中大兄皇子が、実際には斬りつけては居ないのかも知れないが、日本書紀がそのように記述したのは、権威付けか?現天皇の息子であり、後年、大王として仰がれる人物がしたことにすることに、犯行を正当化する意味があった。
A  暗殺の二日後、皇極天皇は退位をし、軽皇子(かるのおうじ)が即位して孝徳天皇となる。
B  中大兄皇子はその後継者”太子(天皇の後継者)”となった。
C

 孝徳天皇は、年号を「大化」と改め、律令体制の礎となった「改新の詔(みことなり)」を発した。
 『改新之詔』「あたらしきにあらたむみことのり」
 大化の改新
第一条には ・・・『臣連伴造国村首所有部曲之民』
大臣(おおまえつきみ)以下、豪族、村長(むらおさ)たちは民をすべて差し出すように・・・・」
とあった。これこそ飛鳥京建設が念願であった皇極天皇が待ち望んでいたものであった。
           
 遠山氏は言う・・・・
 「日本書紀では、入鹿が皇位をねらったから暗殺された。と書いてあるが、実際にはそうではなく、王位継承を巡る権力闘争の犠牲になって敗れた結果である。」と述べた。
「しかし、これを結果として中央集権の一大改革であったと見ることが出来る。」
☆ 孝徳天皇が崩御すると、62才になっていた皇極天皇が斉明天皇となって再び即位した。
公地公民になって、民を自由に使えるようになった斉明天皇は、都の建設に本格的になった。近年の発掘調査の結果、斉明天皇は、宮殿の東に宗教儀礼の場を造営していたことが分かってきた。
酒舟石遺跡と呼ばれるこの遺跡の中央には亀を象った亀形石像物があり、亀を象った石に水をためる祭礼の装置は設置されていた。中国では古くから皇帝の守り神として崇められてきた。また、不老不死の仙人が棲む鳳来山を支えたとも言われていた。
これによって飛鳥京と天皇家との永遠を願ったのであろう。
☆ 斉明天応と共に都の建設に取り組んだのが、その息子中大兄皇子であった。
@


 飛鳥京の西北に位置する水落遺跡からは、中大兄皇子が設計したと言われる巨大な水時計が発掘されている。都の人々に時を知らせるためのものであった。
斉明天皇と中大兄皇子は、土地や民だけでなく「時」を支配することで、中央集権国家を田品物にすることになったのである。
A


 しばしば九州や東北へ遠征を行った
征服した人々を招く迎賓館だったと思われる場所から”須弥山石
(しゅみせんせき)”が発掘された。=石神遺跡(迎賓館跡)
ここに世界の中心を表す須弥山石を置くことで、斉明天皇は飛鳥京こそ国の中心であることを示したのであった。
☆ 661年7月24日  斉明天皇は、戦いに赴いた九州で崩御する。
中大兄皇子が亡き母(斉明天応)を偲んで歌った歌。

君が目の 恋(こお)しきからに
  泊
(は)てて居て
かくや恋ひむも 君が目を欲
(ほ)
     母上の面影を求め いまここに舟を泊めております

     私が母上をお慕いし はるばる参りましたのは

      唯一目でも母上とお会いしたいからなのです
☆ 中大兄皇子は、その7年後に天智天皇として即位した。
           
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