天ケ峯と巨石信仰             
  少々見にくい地図だが、天ケ峯はほぼ中央にある。南に「仁王」・「真垣内(まながいと)」その南に「東宮口」。管理人の住まいする「東宮口」に、六所山・六所神社が鎮座する。
六所山は、標高606mである。このページは、天ケ峰までの風景と安全寺の様子をご紹介します。

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「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会 より
 
 天ケ峯は、写真の地図の中央にある。

 標高約360mの山頂で、岩が折り重なっている所である。
 地名としては石楠町の所石(ところいし)地区とも境界をなしているようであり、また少し北は足助町大字上脇にも接している。
 南側の山懐には、仁王地区の安全寺があり、徳川初代の親氏が仁王像を納めたといわれる。
 (今の仁王像は後の作) その後では松平五代長親の隠居寺であったという。
 徳川初代の親氏は、天ケ峯の山頂に立って、一望の下に見下ろせる西三河地域を治めようと大志を抱いたといわれている。

 岩場には88体の石仏が配置され、別名この山を弘法山ともいう。

西側の中腹に「所石弘法堂」がある。

天ケ峯の岩陰から弥生時代前期の土器片が数十個発掘され、
南側に祠(ほこら)もあるから、巨石信仰の場であったと思われる。
 

☆巨石信仰について

        ・・・
「愛知発 巨石信仰」愛知磐座研究会中根洋治による。

 曰く〜

     
巨石信仰は、原始時代から始まり、元来自然の大きな岩を崇め奉った風習を言う。岩は長く残るので、現代までも信仰の続いているところもある。

 
明けてみよ 祠(ほこら)の中に何もなし
     祈るところに神ぞまします


と言われるように、多くの社殿の中には本来のご神体は少ない。あっても後世見つかった鏡・隕石・サメの歯などを所蔵している神社は多少あるようだ。
しかし、古い神社の裏山に太古の本来のご神体であった”磐”がしばしばある。
 
信仰の対象であった磐を探す方法としては、
○ 地名や神社名に「岩倉」「石」の文字が着いている場合。
○ 神社の真裏に厳かな岩がある場合。
○ 民族史などの図書関係、人伝を参考とする場合。
○ 地名や寺社名に石を表す間接的な文字がある場合などである。
☆ 巨石信仰の種類
@ 磐座(いわくら) ・・・・神(祖先の霊魂)がそこから舞い上がり、   Link
            舞い降りたとされる岩
A 岩神     ・・・・・・・豊作を呼び、    Link 
            あるいは病気の神などとされる岩。 ここ、天ケ峯など
B 磐鏡
(いわさか)・・・・周囲を石で囲み、その内側を聖域な区域とするもの。 Link

             ・・・などが主なものである。
  ・・と解説されている。
巨石信仰の場、天下峰 !

 

ここに登るつもりで参加した。
仁王村から天ケ峯を望む。

むこうの山がそれだ。
毎年一度、この一体の部落(村)の人々の交流会が行われる。
今年は、天ケ峰と安全寺をテーマに、老若男女が集合した。
 各村毎にいろんな趣向を凝らして、串焼き・五平餅・豚汁などを振る舞った。
 勿論、酒もビールも配布された。

 我々も、参加した。
 子どもの頃に遊び回った処ではあるが、今、改めて天ケ峰・安全寺などに訪れてみた。
 一杯機嫌で、楽しかった。
 このシマは、我が村「東宮口」の

”出店(でみせ)”である。

 一声、

「ご苦労様!」「ごちそうさま!」と、

声を掛けて、目指す方向へ進んだ。

 
 安全寺に向かう道中の民家である。

 子どもの頃遊んだ場所とは思えないほど、

別の世界に入ったように思った。

それほどの、ご無沙汰であった。

 随分と、景色は変わったような気がする。

 それほど、ご無沙汰であった。

 歴史的に由緒のある『安全寺』に辿り着いた。

 ここで、子どもの頃、

1年先輩の今の老祖と遊んだことがある。

 その時に、もう今は居ない

品の良い老祖の母親が、

子どもの私に『粗茶でも・・』と、

お抹茶を点ててくださった。

 それは忘れることができない。
 さて、到着。

 門には『天下山』とあった。

 子どもの頃にはもちろん気づかなかった。
 妻と村の仲良しグループ一行で訪れた。

 
徳川初代の親氏が

仁王像を納めたといわれる。

 (今の仁王像は後の作)

 その後では

松平五代長親の

「隠居寺」であったという寺である。
 門をくぐると、左手に厨房(おくり)がある。

 そうだった。ここで、現老祖の

母親から”粗茶”を賜った。

 忘れられないのは、

不思議なお茶”粗茶”なるものを

呑ませていただいたからだ。

 家に帰って母親に

「”粗茶”を頂いた」と報告して、

叱られたことがあったからである。

 落語のようなお話である。

 今日は特別に、老祖もお出ましになった。

 常日頃は、豊田市の市街に

住まいされている。

 息子さんは、光月院の住職をしている。

 イベントに併せて、今日は安全寺に

帰ってこられた。

 
いつもは無住寺となっていて、

村人達が交代で、管理をしていると聞いた。

 
正面に本堂。

 質素なものである。

 野点用に、席が設けられて・・・、

老祖は計画の講演の準備である。

 老祖によって、柱に、写真の絵図が

掛けられた。

 天国と地獄の絵図である。

 この後、参加者がここに集まって、

講演を拝聴することになっている。

 

小学校の幼馴染みで、懐かしい。

 だが、老祖は京都の寺に修行に出て、随分と長い間帰ってこられなかった。
 
 一緒に記念写真を・・・・。

 我々は、今より天ケ峯に登ることにする。

 別れを告げた。
 

 
岩場には88体の石仏が配置され、

別名この山を弘法山ともいう。

 つずれ折りになりながら、山頂に続く狭い道であった。

 各所に石仏が祀ってあった。

 一杯飲んで、それからの登山は、老体に堪えた。

 山頂に到着。
 思わず、我が村を探す。

 眩しくひっそりと、我が里山もあった。

 ここは大きな岩の上。

 ロッククライミングの愛好者達もいた。

 徳川初代の親氏は、天ケ峯の山頂に立って、一望の下に見下ろせる西三河地域を治めようと大志を抱いたといわれている。
           
 ふもとの仁王村である。

 荘作(しょうさく)とも言われた。

 大昔には、荘園があったんであろうか?!

 この辺り一面には、弥生時代の土器片が多く出た。
 西側の中腹に「所石弘法堂」がある。

 かなり大勢の人々が集まって座ることのできそうな、平屋作りの家であった。

 漆の紅葉がまぶたに焼き付くほど、美しく思えた。

 この辺りまで、昔は耕作をしていたようで、

 畑の跡があった。今は杉林になっていて、

 管理の手は入っていない様子だ。

 「人ごとではない。」

・・・そんな想いで帰路についた。

☆巨石信仰について
  1〜7 まで
        ・・・
「愛知発 巨石信仰」愛知磐座研究会中根洋治による。
     
☆ 巨石信仰の種類 ・・・・・ この里の近くに多くの巨石信仰の跡がある。
@ 磐座(いわくら) ・・・・神(祖先の霊魂)がそこから舞い上がり、   Link
            舞い降りたとされる岩
A 岩神     ・・・・・・・豊作を呼び、    Link 
            あるいは病気の神などとされる岩。ここ、天ケ峯など
B 磐鏡
(いわさか)・・・・周囲を石で囲み、その内側を聖域な区域とするもの。 Link

                   ・・・などが主なものである。