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巨石信仰の史跡を訪ねる-1
:磐座
(いわくら)

主とした参考・引用文献:「愛知発 巨石信仰」 

 愛知磐座研究会 中根洋治 著 平成14年発行 
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☆ 何故、巨石信仰か?
 山間地に育ち、この”自然”に育まれて見聞きした住民達の素朴な「信仰」には、根深い伝統的な繋がりがあって、各地に様々な痕跡が今なお遺っている。
 それは、そのまま日本人の心の源でもあったのである。
 戦後、この精神が忘れ去れようとしてきたが、しかし、今、地球上の全人類に、当にこの”日本精神”が求められていると、想うのである。
 ・・苦縁讃
                 
日本精神通義 日本の「こころ」を活学する   安岡正篤 著 より引用
T 日本精神の源流
1 古神道の勃興とその根強さ
     <略>
 神事「大祓い」は、人が神に参るゆえんでありますが、次ぎに神を招き、神の降臨に接する信仰があります。
 その第一は、「御鏡
(みかがみ)」の信仰であります。
 天照大御神は、天孫降臨に際して、こういっておられます。
 「葦原
(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、これ吾(あ)が子孫の王(きみ)」たるべきの地なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)(ゆ)いて治(し)らしむべし。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんことを天壌(あめつち)と與(とも)に窮(きわ)まりなかるべし。」
 さらに、
 『吾
(あ)が児(こ)、この御鏡(みかがみ)を視(み)まさんこと、当(まさ)に猶(な)ほ吾を視るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)をおなじくし、殿(みあらか)を共にして、以(も)て齋鏡(いわいのかがみ)となすべし。』
                            と仰せられました。
 これは伊勢神宮の由来でありますが、決して偶像礼拝ではありません。
 神霊の表象 ー みたましろ(霊代:れいだい、霊形:れいけい)、すなわち厳粛なる反省による所であります。
 第二は、「ひもろぎ」(神籬)
「いわさか」(磐境)の信仰であります。
 天孫降臨に際し、「たかみむすびの神」は天孫随行の天児屋根命
(あまのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)らに、
 『吾は則
(すなわ)ち天津神籬および天津磐境を起こし樹(た)てて、常に吾孫(すめみま)の為に齋(いわ)ひ奉(まつ)るべし。
 汝
(みまし)天児屋根命(あまのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)宜しく天津神籬を持ちて、葦原中国(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾孫(すめみま)の為に齋(いわ)ひ奉(まつ)れ。』(以上神勅みな『書紀』による)と宣告されております。
 「ひもろぎ」とは祭祀の庭を特に区画限定する時、たてられる樹枝
(じゅし)などで作ったものですが、それが「みたましろ」となった場合をも指します。
 そのよってたつ鞏固
(きょうこ)な基礎が「いわさか」であります。
 いやしくも皇孫の行きたまうところ、坐
(ま)しますところ、常に天神と共でなければなりません。
 これを輔弼
(ほひつ)したてまつることが臣下たる者の最も貴い責務であります。それには国民各々また常にそれぞれ「ひもろぎ」を奉持しなければなりません。
 日本民族の祖先は決して利己主義、刹那主義、唯物主義的享楽主義者ではなかったのであります。
 彼らは皆その子孫のため、国家のために、信仰の崇卑こそあれ、それぞれ「いわさか」(磐境)を起こし、「ひもろぎ」(神籬)を樹てんことを念願してきたのであります。
 日本人たるものは永久に、汝
(いまし)「ひもろぎ(神籬)」および「いわさか(磐境)」より国津神籬および磐境を、則ち個人的信仰生活より団体的信仰生活に、団体的信仰生活より皇国的信仰生活に高まらければなりません。
 個人的信仰生活が国家的信仰生活と矛盾する間はまだ日本人として「みかがみ」「ひもろぎ」の信仰に徹しているとは言えませんが、この点、儒教、仏教の先哲はさすがに偉大でありました。
 今日、ともすれば紛争を起こす一部の仏教徒やキリスト教信者はここに深く思いをいたすべきであります。
 「御鏡」「神籬」の信仰はやがて宮中祭祀となり、神社神道となって発展いたしました。
 <略>
           
















 我が里の近くを中心に、巨石信仰および山岳信仰の痕跡を、書物から訪ねてみた。
 繰り返してお断りしておくが、内容は上記の書物の受け売りである。我が地域に比較的近いものだけを拾い出した。
 仏教以前に、何があったのか? そして、”信仰”と庶民の生活の痕跡を辿ると、「主義」や「思想」以前のヒトの”こころ”が、おおきな岩とか高い山にいわば密着しており、そこにその発祥の地を持つようである。
 人類は他の生物と異なって、『知能』を唯一の武器として、20万年の間生き続けてきた。
 知能は、技術を生み出し文明を発達させてきた。
 しかし、残念ながら、『智恵』は遺伝させることは不可能であった。
 人類は当然に生物の一員でありながら、特殊な生物圏を形成し、尚、不確かな共同幻想の中に喘いでいる。
 賢明なリーダーは常に必要であった。しかし、権力者によって苦しんでも来た。
 巨石信仰の足跡を辿ることによって、
 素朴な・・・、無垢な・・・、ヒトのこころを振り返ることが出来そうな気がするのである。
 いずれ自らそこに赴いてその場に訪れて、皆様に自分の画像をご紹介したいと思っている。
                              ・・苦縁讃

             
 新城市の岩座(いわくら)神社  大字大宮狐塚

 平安時代の国内神明帳に載る(いわゆる式内社)正三位磐座大明神である。
 この当たりは標高約90m。

 平安時代の国内神明帳に載る(いわゆる式内社)正三位磐座大明神である。この当たりは標高約90m。
 
 鐘は、嘉吉3年(1443)の銘で、今、信州伊奈立石寺に移動されているが、これには岩倉大明神とも彫られているという。

 「総国風土記」に、『祭神は天稚彦(あめのわかひこ)で、大宝3年(703)初めて石座神社で神事を行う。』とされ、また、「古事記」には、『天津国玉の神の子天若日子(あめわかひこ)を祭神とする』と記されている。

 なお、石座神社の祭神は他に天御中主命と、大正4年に合祀された比売
(ひめ)大神・大山祗(おおやまずみ)神・素戔鳴尊(すさのお)・伊弉册(いざなみ)が、「県神社名鑑」に記されている。
 山の少し上方の鐘楼跡付近に南宮明神がある。図のように、磐座は神社の北方約2Kmの雁峰山(がんぽうざん)系の中腹にある。「みそぎ場」という沢を経て西に登ったところがその岩の場所である。
 岩の下手は多生傾斜しているが、お祭りのできそうな平らな場所がある。
 この岩は、「石座石」と言う名で昭和51年新城市文化財に指定され、しめ縄が巡らされている。岩の直径は8m程で永年の風雪により二つに割れている。
 岩の西側を人馬がとおりこの道は新城市牛倉と鳳来町布里
(ふり)を結ぶ道で、かつては布里の方から薪やその他の産物が往き来したものである。この道は、現在車両は通れないが県道布里新城線になっている。

 さて、この道を尾根まで登ると標高は620m。「額岩
(がくいわ)」と呼ばれる額の出っ張ったような巨岩がある。七久保から布里を結ぶ参道があって、そこを通る人々は今にも崩れ落ちそうで恐いと思うだろう。
 この岩は石座神社の奥の院とも言われ、石座神社と石座石のほぼ延長線上にある。
 しかし、額岩の当たりは急傾斜になっているので、祭をするような場所はない。

 額岩は、別名「鏡岩」とも呼ばれるが、その昔浜名湖の方の漁師が、『新城の鏡岩に日光が反射して不漁になってしまう』と言う苦情を主張したため、明治年間に岩の表面にキズを付けたという言い伝えがある。

 地元の郷土史家川合重雄氏(富沢町)によれば、雁峰山は元神峯山と書いたそうだ。神峯山の峯の大きな岩を石座石と称し、上古は頂上に社が鎮座していたが、度々の野火にあい、大宝年間以前より麓の現地に社は移された。・・・が、この社も天正年間に武田軍の兵火にかかったという。
 現在、神社から1km半南の国道151号線(旧伊那街道)沿いに社標が建っているが、昔はそこから雁峯山に至る約1里の範囲が神域であった。その旧伊奈街道付近の地名は、「門前」と呼ばれていた。
 

 猿投山の御舟石(おふねいし)ほか   豊田市猿投町


 猿投山は、豊田市と藤岡町の境に位置する神体山と言われる。「加茂」の地名は、猿投の神に因んだものと思われる。山頂から11km真南の東梅坪に鳥居があり、これは遙拝所(鳥居下)であった。

 猿投山は、豊田市と藤岡町の境に位置する神体山と言われる。
豊田市側の位置は、昭和42年まで西加茂郡猿投町であった。
 この「加茂」の地名は、猿投の神に因んだものと思われる。
 猿投神社の神主の白鳳さんの曰く「江戸時代まで山全体が神社領であったが、明治時代になって払い下げられた。」とのことであった。
 山頂近くの東宮と西宮には、江戸時代まで神官が寝泊まりしていた。
 猿投山の標高は、東宮の裏で638mであるが、神域で立ち入りが憚られるので、一般的には西峰にある測点の629mとなっている。
 山頂から11km真南の東梅坪に鳥居があり、これは遙拝所(鳥居下)であった。
 創祀は、313年仲哀天皇であり天武天皇白鳳年間には、猿投山白鳳寺(神仏混合)が建立された。
 猿投山の古称は、鷲取山(西宮の小字名が、鷲取となっている)といい、サナゲの語源はナギ(山崩れ)の多い所ということらしい。
 最盛期には24坊あった社も天明の豪雨
(1780〜1782)のナギにより殆ど埋没してしまったと言われる。
 猿投神社の祭神は、大碓命(おおうすのみこと)で、景行天皇の長男、則ち熱田神宮の小碓命(こうすのみこと)の双子の兄とされる。同時に、景行天皇と崇神天皇を祀る。
 西宮の裏手に大碓命の陵墓と伝えられる柵で囲まれた土地がある。ここは、砥鹿神社・知立神社に次いで、「三河三宮」とされていた。
 「社蔵神号額
(1304年)によれば、神階は「正一位猿投大明神」であった。また、神領は三河一の776石であった。
 「御舟石」は、西の宮から大碓宮の陵を通り、なお尾根つたいの道を山頂方面に登ったところにある。
 この岩が猿投神社の磐座とも言われるものである。別名を「沓石
(くついし)」と呼び、景行天皇が海を渡ってこられ、上陸して留められた舟が石になったものと言われている。
 元もと三体あった石は、ある年洪水により一体は流されて豊田市御船
(みふね)町の御舟石になったという伝説がある(猿投町史)。
 また、宝飯郡の本宮山方面から猿形なる者が石舟に乗り猿投山へ来たという伝説もある。いずれにしても豊田市を含む西加茂郡の守護神と言えよう。
 神社から1km余り南西に神郷下遺跡が発掘され、縄文時代の遺物が確認されている。
 また、4km位南には「亀首」と言う地名もある。亀は神の意味がある。
 それから10kmほど南西には宮口という地名もあるが、これは猿投神社の一の鳥居のあった所で、二の鳥居は、亀首地区の南西端にあったそうだ。
 その他の石
 猿投山には著名な岩がまだ他にも有る。
 樹齢700年と言われる本宮の杜を越え、山頂を目指す途中には「お倉石」が、また、東の宮から藤岡町北一色へ向かう山道に「屏風岩」、頂上の尾根に「蛙岩」、西方の瀬戸市方面に「団九郎岩屋」
(昔、山中団九郎という山賊が住み着いていたという)などがある。

☆ 神社にまつわる話
 @ 祭神大碓命は、東征を好まず、そちらは弟の日本武尊に任せて自分は地方の開拓に尽くした。
   しかし、42歳の時、猿投山中で毒蛇にかまれて死んだと言われる。
 A 白鳳年間には16坊の建物があり、総称して白鳳寺と言った。
 B 「三河国名所絵図」には、建仁元年
(1200)源頼朝が当社を大社に改築したとある。
 C 宝物の中には、縄文時代の姿と思われる尾張の絵図。平安時代の国重文の鎧などがある。
 D 当社解説書(大場磐雄著)によると、「出雲系大国主命の子孫の系統である加茂族が、
   矢作川を遡って、この加茂地方に来た。」等と記されていた。



  足助町飯盛山頂上の経塚   大字足助字飯盛

足助町 飯盛山頂上の経塚

   大字足助字飯盛

 



 岩の間から大正13年に経塚が発見され、『飯盛山経塚出土品』は、県重要文化財になっている。

香嵐渓の紅葉で有名な飯盛山に山頂は、足助次郎重範の居城の跡である。

 その人は南北朝時代、南朝後醍醐天皇
(1318〜1338)が笠置(かさぎ)山に逃れた元弘の変(1331)の折、南朝方3000人の兵の総大将になった強弓の人である。
 その頂上に磐座と考えられている岩の群がある。それらの岩の間から大正13年に経塚が発見され、『飯盛山経塚出土品』は、県重要文化財になっている。経塚とは、十世紀末、末法思想から世の中の経典がなくなることを恐れて埋葬したものとされている(異説もある:管理人)。
 足助八幡宮は、この麓にある。
 山頂のこれらの岩の所が明治初年まで『獄の宮
(元久元年1207)造営』とされてきた(「足助町誌」による)
 別名「奥の院」「上の杜」とも呼ばれ、そこにあった三体の木像は現在足助八幡宮に合祀されている。
 一般に「飯盛山」とは、椀に飯を山盛りに盛った形を言う。豊作をもたらす山の神、則ち田のこもろ山で、山頂に社がよくあるとされる。
 飯盛山麓の足助八幡宮は、白鳳2年
(673)創建とされ、それまでは山の上の岩群がご神体だったわけである。
 江戸時代まで、足助77カ村の総社とされ、ここの地名は大字足助字宮の後である。祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后であり、本殿は国の重要文化財である。
☆ 神社にまつわる話 ・・・
     
「足助八幡宮縁起」は、西暦667から1338年まで年代を追って記述したものである(町文化財)。

その中の話・・・・・
@  天智天皇の時代のこと、宝飯郡に怪奇な者三つ現れて、一つ猿形なるは石舟に乗り猿投神社へ、もう一つは鹿の姿で砥鹿神社へ、最後の一つは鬼神なる姿で熊野本宮より来た者として本宮山から足助郷飯盛山へ飛来したという。
A また、建久6年(1201)、当社を大社に造り替えたとある。

 このように、飯盛山はその昔、東三河の本宮山や西三河の猿投山と並び称される程の霊山であったことを物語っている。


  豊田市岩倉町   岩倉西(本郷)
 この地名は江戸中期の絵図にも載る古くからのもので、明治期には松平志賀町まで含む志賀村であった。
 この辺りで一番高い大峰山と神明社がある。俗に高根明神とも言うらしい。前には100u程の広場がある。
 この社の東側に役目の解らない石積みがあるが、その東側、斜面が始まろうとするところに傘状の岩がある。 これが岩倉という地名の基となった磐座がある。
 更に北の林の中に凹みのある岩がもう一つ立っている。岩の形が花崗岩特有のウエーヴロック現象(永年の凍結と融解の繰り返し等によって、波形に浸食を受ける風化現象)らしい。この二つの岩は、同市今町の岩神(陰陽石)と形が似ているので兄弟扱いをされるむきもあるようだ。
 東側の麓には志賀神社がある。
 これは岩倉東の白山社・岩倉南の神明神・岩倉西の高根明神の総社らしい。
 これは八王子大明神とも言われ、天王さんも祀ってある。
 北の松平志賀町と同じく志賀町にも志賀神社がある。
 この神社の東隣に三つの折り重なった岩があり、そこに戦死者を祀る「御霊社」がある。




 神社の北西にある進入路の山側に岩屋がある。その奥を見ると高さ1mほどの立石がある。この洞の中で、川船の船頭は雨が降るとバクチなどをよくやったらしい。
 川船は、巴川のこの辺りから生活物資などを積んで下流へ運んだり、また、海の産物を山間部へ運んだもので、昭和10年頃まで盛んに行われたものらしい。
 「平薮船頭、桑原大工」と言われたように、下流の桑原には大工が多く、岩倉の平薮地区は船頭が多かったそうだ。




 また、岩倉小学校跡地の南は巴川添いにあり、その南側にも巨石がある。川船を祀るコンピラさんといい、岩の上に文政年間の灯籠の土台があるが、そこにあったコンピラさんは十年ほど前に下に移された。
 山頂の磐座のある社は元来「高根神社」であったが、応仁元年
(1467年)麓の志賀神社に合祀された。
 高根神社の跡地に今も残る社の中に、ピラミッド型の小型の石があるという。現在、第二東名の事業で磐座が残るかどうか、瀬戸際にある。


 豊田市西中金の岩倉神社   字岩倉


 ここには廻り舞台が残されている。地元の人々の集まりの場所であったのだろう。
 この字の範囲は、国道153号の南まで含むようだ。

 祭神は、イザナギ・イザナミノミコト。

 岩倉神社の裏山を尾根伝いに登ってゆくと、今度は東西方向の尾根にぶつかる。

 そこを少し東に進んでみると、少し低くなった尾根部に二個の岩が折り重なったようにして存在する。

 一見して厳かなこの岩は、神社の北方に位置している。

 ここまでの踏み分け道は一切ない。
更に東に進むとこの地区の城跡がある。


  豊田市寺下町字岩倉


 
この町は、元の地名を「寺谷下(てらやげ)」といった。

 ここから北方の高いところに字岩倉という地名がある。


 そこまで行くには戦国時代から使われた信州街道の旧道を歩く。
 この道は、名古屋方面と矢作川の扶桑町(旧:古鼠
(ふっそ))から足助を結ぶ道であり、とくに近世は川船の荷物がその終点の「古鼠」で荷揚げされ、足助経由で信州方面に運ばれたという。

 寺下町の神社から北方の田圃の中なの常夜灯を左折し、尾根に入って鉄塔のある一番高い所を目指す。 頂上付近で古道はやや右に曲がるが、そのまままっすぐに小山に登ると、小さな石仏があって、その東に”岩”がある。道はわかりにくいが、そこから東側に降りてゆくと有る。

 岩の大きさは、長さ8m、幅4m、高さ2mと言う大きさ。
 傘状の岩は、ウエーブロックであろう。岩の南側には平場があるので、何かの行事は可能である。
 石仏の後ろにお寺があったという話もある。


  豊田市野見山の神石   野見山町



 野見山は展望台も設置されていて、昔から眺めの良いところである。

 この山頂に野見神社があり、その前に握り飯型の独立した岩がある。

 高さ2mばかりのこの岩は背後から見ると立石の感じに見える。
 野見神社の祭神は、「野見宿禰(のみのすくね)」である。垂仁天皇(記紀伝承上の天皇。
 崇神
(すじん)天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅イクメイリビコイサチ。)の時代に、都で人を苦しめていた悪逆非道の”当麻□速(たいまのけはや)”を一蹴のもとに倒したという相撲の神様である。
 また、土師部
(はじべ)を率いて埴輪を作りこれを身代わりにすることで、それ以後は殉死を禁じたといい、焼き物の神様とも言われている。
 創建は垂仁天皇22年と言われる式内社である。
 野見山は、昔、近在の御立・大見・山室の共有地であった。
 神社は、北東の牛野
(ごの)と南方の山室の産土(うぶすな)神とも言うと「三河古墳考」にあった。
 野見山東側を超える散策路は、昔家康が寺部城・広瀬の三宅氏を攻める(4度)ときに通った古道とされる。
参考資料:
       

   白山神社の岩      足助町大字霧山(位置は、上の地図を参照)
 ”キリ山”と言う地名は、焼き畑農業をしていた所だという言い伝えがある。

 樹木を切り山にして燃やし、そこに種を蒔くというものである。

 ここは、江戸時代の代表的な”塩の道=足助街道:三州街道”にある峠に位置している。
 昭和12年に5000円で改築したという拝殿から、137段登ると「御中殿」と呼ばれる白山神社本殿に至る。加賀の白山から分神したものと伝えられる(当地の古老清水保一氏の談)。
 この「御中殿」から山頂を目指して、その裏手から急な踏み分け道を登るのである。
 頂上近くになって、右側に丸い石が転がり落ちそうになって、まるで行く手を拒んでいるかのようで、クランク状に前進しなければならない。
 その少し先に不気味な恐ろしい巨岩が立っている。檜林の中である。
 恐ろしさを感じたのは何故であろうか。見れば、岩が黒々としている。南面の直立した岩の高さは、およそ13m。一種独特な威圧感を受ける。
 岩の天辺の形が丸く、岩は南面しその下に平場がある。
 巨岩の東側に耳穴状の凹みがあるが、風化浸食穴であろう。
 山頂には、奥の院があるが、ここは霧山城跡と言われ、堀とか曲輪跡がある。
 なお、白山神社の東方100m程に「蓮花院淨雲寺」と言う尼寺がある。
 同じ山にあるその尼寺の真裏を少し登ると、岩陰に”毘沙門”と”稲荷”が有る。


  下山村大字和合字岩倉   東加茂郡
 巴川の支流から西の山中にこの地名があり、少し前まではこの小字に四軒の家があったが、現在は木彫をやっておられる一軒のみとなった。

 おおかたの岩倉は、山頂近くにあるのであるが、ここの場合は山の中腹にある。

 以前民家があった屋敷跡の裏にある。
付近には、『寄せ神さん』と言って、明治初頭に廃仏毀釈の折に村内各地から寄せ集めた諸神や石仏が沢山寄せ集められている場所もある。


    豊田市幸海町  熊野神社の岩


 昭和37年までの地名は、東加茂郡松平町大字酒呑字畑であった。

 現在では、県道から離れた盆地城の所だが、その東には戦国時代からの信州街道が通っていたところだ。
 サチノミという地名は、豊かな獲物のある所ということで、オーブチという地名があると言うことと、付近の地形からすると、昔は湖があったかも知れない。・・・・と、




筆者(中根洋治氏)は推測する。


 神社の場所は、約9000年前の住居跡ジュリンナ遺跡の南方山頂にある。
  祭神は、イザナギ命(県神社銘鑑)となっている。
 酒呑城跡や、中世の「皆福寺」もある畑地区は、酒呑の中心地であった。
 熊野神社の西には、巨岩が累々と存在する。社ができる前はこの巨岩がご神体であったろうと類推するに充分な雰囲気である。


   両神の岩    足助町四ツ松  向かい合わせの神社だから『両神(もろがみ)』と呼ばれる


 
四ツ松の三差路には、足助街道の裏街道だったということで、『ぜんこうじ・ころも・おかざき』を示す道標がある。


また、その他に常夜灯・石仏・庚申塚・墓等もある尾根にあたる位置である。それより200mも北に進むと八王子神社がある。この八王子神社の元宮が、西方にある山頂の岩だそうだ。通称「笠松」と称されている。

 笠松岩から望むと、八王子神社はほぼ東側にあたる。
 神社は山頂の岩の方を向かずに南を向いて建てられている。
 この神社正面に田圃があり、これを挟んで「十明
(とみょう)神社」の鳥居が対面する格好になっている。

 向かい合わせの神社だから『両神
(もろがみ)』と呼ばれるが、十明(とみょう)神社の氏子は大字が八つあるが、八王子神社は四ツ松地区単独の神社だとのことである。
 両神は、大永2年
(1522)に麓に神社を移したという記録がある。
 頂上を通り越して北側斜面の鉄塔の方向に、鏡のような平らな面をした岩(長さ15m・高さ4m)がある。
 更に西に、「弁慶岩」称される岩がある。
八王子神社
 祭神は、天照皇太神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしみみのみこと)・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野□橦日命(注:□は文字が無い)と素戔鳴命(すさのおのみこと)の御子の思姫命・活津姫命・市杵嶋姫命の八王子とされる。
この八王子神社の元宮が、西方にある山頂の岩だそうだ。通称「笠松」と称されている。
山頂に行くと、北東側が平面になった岩(笠松岩)が二枚あって、その割れ目の間に椎の木が生えている。南側に回ってみると岩の形状は象の背中を大きくしたような姿である。
十明(とみょう)神社
 十明(とみょう)神社の元宮も同年にその東方の山頂にあるカナヤマ石から移され、その祠(ほこら)は妙見大明神であった。
経緯はわからないが、今、妙見さまは本殿西の小社となっていて、本殿は菊理姫を祀っているという。
********************************
  因みに、菊理姫は別称:白山比売神
(しらやまひめのかみ)、白山媛命 である。

◇ 先の二神と八王子を合わせて、「十明(とみょう)神社」と名付いたともいわれている。
両神から南東約2kmに十明山という山があるが、この元の名は「熊倉山」と称したそうである。徳川四代長親が天文元年
(1532)十明(とみょう)神社に先勝祈願をし、大般若経600巻と熊倉山を寄付したので、以後、十明山と改名し十明(とみょう)神社の奥の院を十明山に移したのだという。

        
  注:以下の資料は検索してみたものである。 m(_ _)m   _( 。_。 ) _
性別:♀
系譜:黄泉平坂
(ヨモツヒラサカ)に現れ伊邪那岐命と伊邪那美命の言い争いを調停した神
神格:白山の神、農耕神
神社:白山メ神社(活字不足)、白山神社、白山長滝神社

 神話でたいした活躍をしていなくても、もともとが有力な地方神であって、一般の信仰のなかでは大変なパワーを発揮している神がけっこういる。
 この菊理姫神もそんな神の代表例である。実際にこの神は全国2717社を数える白山信仰の神として知られる日本でも有数の霊威神なのである。

 菊理姫神は、加賀(石川県)の霊峰白山を御神体とする白山比売神社の祭神で、古来、人々から「いのちの親神」と崇敬されてきた女神である。
 一説に白山神は大山祗神ではないかともいわれるように、菊理姫神はその本源として山の神の神格を持っている。
 山は神霊の宿るところ。山は水源であり、その水泊だって水田を潤し穀物を実らせる。それ故に農業の守護神としてそのパワーを発揮する神ということになる。

 これが有力な神としてこの神が広く信仰される大きな背景としてあるわけだが、機能的に見れば他の山の神に共通するものであって、この神の個性といえるものではない。それよりも、死者の霊を呼び出して憑依させて口寄せするイタコの先祖のような神というところに、神秘的な個性が感じられる。

 菊理姫神は、神話では「日本書紀」の一書の一場面にわずかに登場するだけであるが、その中でのこの神の役割が興味深い。
 詳しくは禊祓にて述べてあるが、要は黄泉の国から逃げ出してきた伊邪那岐命とそれを追ってきた伊邪那美命の言い争いを調停したということだ。
 この場合、伊邪那美命はあの世の代表者であり、伊邪那岐命はこの世の代表者ともいえる。
 そして、菊理姫神の基本的な立場は伊邪那岐命の側にあるわけだが、とにかく仲介役として両者の言葉を聞き、調和をはかる菊理姫神の姿は、神と人間、あるいはこの世とあの世の間に立って託宣を受ける巫女の霊能を連想させる。「ククリ」の名は、縁をつなぐという意味で付けられたようである。その根源はここにあったというわけだ。

 さらに、この神については、次のような姿も考えられている。日本の民俗信仰では、山は祖先の霊が宿る他界であると考えられてきた。
 だから山の神はすなわち祖先の霊であり、生活を守ってくれる神でもあった。

 巫女の役割はその祖先の霊の託宣を聞くことである。
 つまり祖先の霊=死者の霊との交信。民間でそういう役割を果たす霊能力を持った女性といえばイタコである。
 イタコというのは、山の神に使える巫女が俗化して、もっぱら死者の霊との交信を生業とすることによって、庶民生活のひだの中に入り込んだ姿にほかならない。死者の国と深く関係する菊理姫神は、いわばイタコの先祖のようなものである。
             

 
 
 いずれ自らそこに赴いてその場に訪れて、皆様に自分の画像をご紹介したいと思っている。

 
            
    参考文献: 
「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会 中根洋治 著 平成14年発行
             

                             Link  巨石信仰の史跡を訪ねる-2:環状列石・岩壁編