その日は一日中ぼうっとしながらすごした大輔は、
下校時刻を過ぎても学校の窓から外の景色を眺めているだけで帰ろうとはしなかった。
机にうつ伏せになって一人の世界に入っていると、
タケルに一緒に帰ろうよと誘われたが彼の持つ兄と同じ色を見ていると
さらに頭が混乱するだけなので丁重にお断りした。その際、僕の誘いを断るなんてね、
と意味ありげに ____________________ しかし笑顔はまったく崩さずに
____________________ 言われ、何やら薄ら寒いものを感じたが、
取りあえず今の大輔にはそんなことより考えることがあった。
______________________________ いったいどうなっているのだろう
昨晩から考えることといったらあの人のことだけだ。
こんな感情は初めてのことで、どうしたらいいのか分からない。
自分の抱いているモノが何であるのかさえ分からないのが不安の主たる原因だった。
はあ、と大きなため息をついて窓枠にもたれ掛かる。
まだ夕刻には早い時間帯なので空は目に痛いほど青い。
その色に彼の瞳を思いださせられギクリとなった。
ふと眼下の景色を眺める。見慣れた景色にちらほらと下校する生徒が見えた。
悩みが無い奴らはいいよなと随分自分勝手なことを思いながら大輔は大きくため息を付いて、
同時に視界の端に見逃すはずのない色を捕らえた。
「‥‥‥‥えっ」
それは今まで思い悩んでいた原因であるその人に間違いはなく、
とうとう幻覚まで見るようになったのかと力任せに頬を叩くが、
鈍い痛みが夢ではないことをあらわした。
戸惑いと、それを上回る喜びに先程までの憂鬱さをかなぐり捨てた大輔は、
一分の躊躇いもなく学校の階段を駆け下りていった。
「ヤマトさん!」
背後から声を掛けると彼が驚いたように振り返った。
「大輔‥‥?」
どこか遠くを見ているような蒼い瞳がゆっくりと大輔を捕らえる。
その透明で清廉な色彩に大輔は思わず見とれたが、次の瞬間その視線はあっさりと外された。
どうしたのだろうと思う間もなくヤマトが近くのフェンスに片手をついて倒れ込む。
「ヤ、ヤマトさんっ?!」
慌てて駆け寄ると辛そうな表情でヤマトは荒い息を付いていた。冷汗が大輔の全身を駆け巡る。
「大丈夫ですかっ!!」
「‥‥‥ああ、平気だ」
昨日見たよりも心なしか白い肌が痛々しい。
眉をぎゅっと寄せ込み上げるだろう苦痛に耐えている姿は
こういう場面には相応しくない感情を大輔の内に呼び起こさせた。
______________________________ 何考えてんだよっ!
自分自身に対して叱咤しながら今だに苦しそうな表情のヤマトの身体を支える。
触れた瞬間に少しだけヤマトが身じろぎしたような気がした。
蒼い瞳が揺れ、だが次に覗き込んだ時には一片の動揺もなくなっていた。
その光景に違和感を覚えた大輔だったがすぐに現実的な危機感に心を移す。
「オレ、家まで送ります」
「‥‥いいよ、別に。平気だから」
「今のヤマトさんが平気だって言うなら瀕死のアヒルだって太平洋を横断出来ますよ!」
どんな例えだよと呆れた口調で言われたが、すぐ後に諦めたように笑われた。
今日初めて目にした彼の笑顔に大輔の心が少しだけ軽くなる。
「じゃあ家まで頼む」
「はいっ!」
ヤマトが手にしていた鞄を受け取り、見かけよりずっと華奢な身体を支えながら
一回の道のりで覚えたヤマトの家への道を急いだ。
途中何度か気を失いそうになったヤマトを最後には抱きかかえるようにして連れて行く。
家に着いた頃にはすでに大輔の言葉に反応する気力もなくなっているようだった。
自室までヤマトを運ぶと彼は倒れ込むようにしてベッドへと横になった。
どうして良いのか分からずに不安そうに見つめる大輔だったが、
死んだように動かないヤマトを見てだんだん不安になってきた。
軽く上下する胸は彼がちゃんと生きていることを示していたが、
色素の薄い肌や固く閉じられた瞼は彼の不調を確実に反映していた。
昨日は平気そうだったのに。
ソファーでうたた寝なんかしたからだろうか。そうだとしたらオレのせいかも‥‥
このままだと、どんどん深みにはまって行きそうな思考を浮上させたのはヤマトの言葉だった。
「‥‥‥‥大輔」
「は、はい!」
「悪いけど水持ってきてくれるか‥‥?」
分かりました、と返事をして部屋を後にする。
ノブに手をかけそのままドアを閉めようとし、だが一抹の不安にその手が止まった。
これを閉めて、また開ける時にすでに彼はもういなくなっているような気がしたからだ。
______________________________ そんなことあるわけないだろうが!
不吉な考えを振り払うようにして首を振る。
音を立てないようにドアを閉めると大輔は急いで台所へ向かった。
整頓された台所はすべてのものが大輔の手に届く様な位置にあった。
それはつまりここを仕切っているのがヤマトだという証拠で、
そのことに場違いな嬉しさを感じた。
昨日はここで料理をするヤマトを想像して似合わないのではないかと思ったが、
今では何となくそれも似合うような気がしていた。
それは彼が知ったばかりのヤマトの性質、
そして大輔自身がヤマトに対して抱く感情が原因だったが、
大輔本人にその自覚はなかった。
本当にどうしてだろうと不思議に思いながらコップに水を注ぎ、
それを零れないように急いで持っていく。
ドアを開けるとヤマトがゆっくりと起き上がった。
「悪いな」
微笑を浮かべながら礼をいう相手に気にしないで下さいと答える。
昨日とはまるで逆のシチュエーションに大輔も知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
ヤマトは渡されたコップを手にとり少しづつ飲み干す。
トクリと音を立てて喉が動く様を大輔はじっと眺めていた。
______________________________ キレイだよなぁ
横顔を食い入る様に見ながらこっそりため息をつく。
こうして見ると本当にヤマトはキレイだった。それはテレビの向こうのアイドルや、
写真のモデルとは違った現実的な美しさで、言わば共にいることで気付く種類のものだった。
実際、側にいなければそれほど気にとめることはなかったのだと思う。
確かに容姿の美しさには目を奪われるが、それだけならこんなに惹かれたりはしない。
彼の持っている何か別のものが気になるのだと大輔は思った。
水を呑み終えたヤマトはコップを机の上に置いた。
コトリと音をたてたソレに視線を注いだ後、今度は大輔に視線を合わせる。
「ありがとう大輔、もう大丈夫だから帰れよ」
すぐに日が落ちる今の季節に小学生一人で帰るには不安だから、と言われたが大輔は首をふった。
「ヤマトさんを一人になんて出来ません。家の人が帰ってくるまでオレがついてます」
本当は彼の側にいたいだけだというのを自覚していたが、
何かヤマトの納得する理由をつけたかった。
だがヤマトは親父は出張だからしばらく帰ってこないんだ、と呟くように言った。
彼の複雑な家庭の事情を失念していた大輔は謝ろうとしたがそれを制するようにヤマトが続けた。
「それに、今日は‥‥‥」
そこで言葉を区切る。伏し目がちな瞳が少し揺れ、
次の瞬間には今までに無いほどの落ち着いた色を浮かび上がらせた。
「太一が来るから‥‥‥」
「 _________________________ 太一先輩ですか?」
「ああ」
本当は帰りもついて来ると言ってきかなかった少年のことをヤマトは思い出す。
授業が終わるまで学校に居ろとクギをさして先に一人だけ帰ってきてしまったが、
彼のことだ、終わった途端にすぐにここへ来るに違いない。
今日はサッカーの練習がある日だというのに。
そういった日常を彼がどれほど大切にしているかヤマトは知っていた。
だから本当は練習が終わってからでもいいと言ったのだが、
それは頑として受け入れられなかった。
強情な奴だな、と呆れる。
だが、ヤマトは本当はそれが嬉しかった。
最後に見た太一の鋭い視線や言動がまだ心に焼きついて離れない。
誰でもなく、自分のためにここへ来てくれるということに涙が出そうなほど幸せを感じ、
知らず知らずのうちに笑みが零れる。
それは今までに大輔が見たどの表情よりも穏やかなもので、チクリと胸に痛みが走った。
「大輔、どうかしたのか?」
黙り込んだ大輔を見てヤマトが声を掛ける。
「み、水なくなったみたいだから持ってきます!!」
胸の内に湧いたもやもやした感情を振り払うために乱暴にコップを手に取ると、
ヤマトの顔を見ないように慌てて部屋をでる。
台所まで走って行き、水道の蛇口をひねった。
水に手をつけると少しは冷静になれるような気がする。
まるで火傷でもしたかのように大輔は両手を水の流れに浸したままでいた。
______________________________ 何で
何を戸惑うのだろう、と大輔は不思議に思った。
ただあの人は笑っただけだ。なのにどうしてオレはこんなに動揺しているのだろう。
しばらく胸の動悸を押さえるためにそうしていた大輔だったが、
ふいに水を持っていくといったことを思いだした。
あまり遅いと不信に思われるかもしれないと思い、手早くコップに水を入れて持っていく。
バタバタと慌ただしく部屋の前まで行き、
遅くなったことをどうやって言い訳しようかと考えながらノブに手をかけた。
「あの、ヤマトさん‥‥」
遠慮がちにドアを開けたが返事がない。先程の不安が頭を過ぎり慌ててベットを見る。
当然のようにそこにヤマトはいた。
側まで行くと、先よりは楽な呼吸を繰り返して彼は眠っていた。
______________________________ よかった
いなくなったらどうしようかと思った。
手にしたコップを近くの机に置くと、ベッドの側へ座り込んだ。
じっとヤマトの寝顔を見ると、昨日のことが思い出された。
そっと触れた頬と唇。あの時のような浮遊感が再び大輔を包んだ。
______________________________ 触れるだけならいいだろうか
あの時のような感覚をもう一度味わいたくてふらふらとした足取りでヤマトの側へ寄る。
眠っている彼は本当に儚げで、誰か悪意を持ったものがいれば何の抵抗もなく
どうにかなってしまいそうだった。
そんなことを考える自分は変だなと思うぐらいの理性は残っていたが、
それでも今だ現実感は取り戻せないままでいた。
優しく、何か壊れそうなものにでも触れるようにヤマトの頬に触れる。
昨日よりも幾分上気した頬が心地よかった。
______________________________ ギシリ
ベッドのスプリングが音を立てる。
彼の顔の隣に手を付き、覆い被さるようにして正面から見下ろす。
そのままヤマトの胸元にそっと頭を寄せると昨日と同じ鼓動が繰り返し聞こえて来た。
忘れられない、もう一度だけ味わいたいと思っていたものがここにある。
この暖かさが大輔にはたまらなかった。
無意識のうちにヤマトのシャツのボタンを外す。
心のどこかで止めなければという思いがあったが、それを実行には移せなかった。
一つ、二つと外していくと徐々に彼の肌があらわになってゆく。
その肌にそっと指で触れるとヤマトが少しだけ身じろぎした。
もし、そのままヤマトから離れていれば、次に来る衝撃はなかったかもしれない。
後から考えて大輔はそう思ったが、その時は彼から離れるなど考えもしなかった。
だからヤマトが聞き取れないほど小さく呟いたその名前をはっきりと聞き取ることが出来た。
「‥‥タイ‥‥チ」
その声音は今までに聞いた事のないほどの扇情的だった。
思わずビクリとしてヤマトから離れる。
「いっ、今のって‥‥‥」
太一先輩のことだよな、と思ったと同時に自分の瞳が捕らえたものを見て
今度こそ大輔の心が冷水を浴びでもしたかのように凍えた。
ヤマトの襟元、先程触った胸元に見える紅い痕。
実際に見るのは初めてだったが知識としてはあるそれ。
ごくりと音を立てて喉が鳴る。
______________________________ な、んで
考えられる結論は一つしかないというのに信じたくないという思いがが思考を妨げる。
信じたくない。
それは何に対してだろう。
行為に対する倫理、尊敬していた人達の背徳。
______________________________ 違う
どれも違う。そんなことじゃない。
オレが‥‥オレが信じたくないのは‥‥‥‥‥
「 _________________________ 大輔、なんでおまえがこんなところにいるんだ?」
背後から聞きなれた声が聞こえて大輔はギクリと身を震わせた。
振り返ると太一が不思議そうな瞳で自分を見ていた。
「あっ、その‥‥帰り道でヤマトさんを見かけて‥‥‥
それですごく具合が悪そうだったから家まで‥‥」
覗き見でもしたような後ろめたい気分になりしどろもどろで説明をする。
妙に言い訳がましくなってしまったその言葉に太一はそうか、
と一言答えるとさっさと部屋の中に入ってきた。
そこでぐったりと横になっている人物を視界に捕らえる。
金糸のような髪が汗で額にはり付いて傍目にもかなり熱があることが伺える。
消え入りそうなほど小さな呼吸が太一の胸をうった。
______________________________ ヤマト
側まで寄るとそっと額に手をあてる。
伝わった体温は普段よりも幾分か熱を含んでおり、ヤマトの疲労を色濃く映していた。
「無理しやがって‥‥‥」
学校に行く前から調子が悪いことに気付いていたはずだったのに。
無理にでも休ませればよかったと後悔する。
彼が極度の意地っ張りだということも、ギリギリまで弱さを見せないということも
太一には全部分かっていたはずだった。
「 _________________________ ばかやろう」
ぽつりと呟いてうな垂れる。ここまで彼を追いつめたのは自分だった。
それが太一にとっては何よりも辛いことだった。
しばらくそうやってヤマトの側で動かなかった太一だったが、
やっとドアの前で立ちすくんでいる後輩を思い出した。
横目で見ると、心なしか青ざめた表情でこちらを見ていた。
「ありがとな、大輔。後はオレがこいつを見てるから」
「あっ‥‥‥じゃあオレ帰ります」
鞄を手に取り、ヤマトの部屋を後にする。
ドアを閉める直前に見えたヤマトの表情がその後、しばらく大輔の心から離れなかった。
家路の途中の歩道橋に頬杖をつきながら、
大輔は夕日が落ちる赤い空を無感動に眺めていた。
帰宅途中のサラリーマンや学生が大輔のすぐ後ろを通っていく。
大都市特有の他人に対する無関心さが今は心地よかった。
さっきから何度目かになるため息をつく。
思い出されるのはヤマトの端正で儚げな表情だった。
それは苦痛を描いてる時も変わらず秀麗さを保っていて、そのことにさらに情が湧いた。
彼が見せるものはそれが何であれ大輔にとって
他の人に対して抱くものとは別の感情を引き起こした。
苦痛に堪えながら気丈に自分を見つめる瞳や太一を呼んだ時の安堵の表情‥‥‥
______________________________ それから
肌に残った行為の残滓。
白い肌に浮き上がったそれは大輔の心を激しく掻き乱した。
もう、こうなってはその感情に気がつかないわけにはいかなかった。
______________________________ オレ、あの人が好きなんだ
想いを自覚すると胸が痛んだ。
同時に。
あの人が誰のものかを思い知らされ、
知ったばかりの想いがすでに叶わないことを痛いほど痛感した。
大輔は臆病ではなかったし、相手が誰だろうと一度決めたら容赦しないという
激しい気性を持っていた。
たぶんそれが太一が相手だとしてもそうだろう。
______________________________ でも
今回ばかりはどうしようもなかった。それは彼らの間にある何かがそうだと語っていた。
違うのだ、根本的に。
ヤマトが求めている何かが自分にはない。
それは多分こういった「想い」を抜きにしても共通するもので、
太一のそういう部分にヤマトは惹かれているに違いなかった。
______________________________ だって
そんなことオレにだって分かる。
自分も太一のそういう部分には何かしら惹かれるところがある。
ヤマトが思うような感情とは違うが、
彼の持つ一種カリスマ的な部分には強烈に惹きつけられていた。
一人の人間として、それほど太一は魅力的だった。
自分ではどうしたって敵わないという事実の前に大輔は絶望的な気分に打ちのめされる。
諦めろよ、しょうがないんだ。
何度も自分に言い聞かせる。
だが、そんなことで諦めがつくほど単純なものでないということも、また事実だった。
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