<act 4>
どのくらい意識を失っていたのだろう。
気だるさを残したままの身体を起こすと自分を気遣うように掛けられていた上着がふわりと落ちた。
寒さに身を震わせ、落ちた上着を羽織る。
「お兄ちゃん、気が付いたんだ」
声のする方を見ると少し離れた場所で弟がにっこりと微笑むのが見えた。
その顔には疲労の色など欠片も見えず、思わず苦笑する。
「
________________________ 」
消え入りそうな声で自分の名を呼ばれ、その存在すら失念していた人物の方向へ視線をやる。
地にうずくまるようにして倒れている手足には鬱血の痕が痛々しく残っていた。
「無駄なことを‥‥‥」
声に哀れみを込めて言う。少し前の自分を見ているようで侮蔑と一抹の寂しさの念が湧いた。
________________________ 早く楽になればいいのに
もっとも、そんなに簡単に諦めることが出来る人間だったら用はない。
このくらいは苦しんでもらわなければ困る。
「けっこう難しいんだね、『壊す』っていうのはさ」
彼の側にいた弟が、無抵抗の腹部を軽く蹴り上げた。
もっと簡単だと思ったのにと、ため息を付いて動けない彼の顔を覗き込む。
自分からは影になっていて二人の表情は見えないが、彼らの退廃的なやりとりが面白くて、
近くの木の幹に持たれかかったまま眺めた。
「まだ足りないんじゃない?」
ふいに、自分を振り返っていたずらを思いついた子供のように言う。
「駄目かな?」
その質問には答えず、羽織った上着をそっと下ろす。
自分と同じ蒼色の瞳が鋭い輝きを見せた。弟は彼に対する興味をあっさり失くしたらしく、
その場を離れてこちらに向かってきた。
無言で腕を伸ばすと、下から掬い上げるようにして抱きあげられた。
すでに何度か蹂躪された身体は少しの動きでも痛みを伴ったが、そんなことはどうでもよかった。
下肢を撫でるように触れられると、覚えたばかりの感覚に吐息が漏れた。
そのまま自分を支える腕にもたれかかるようにして行為を受け入れる。
慣らされた身体はすぐに快楽を訴えた。
「
________________________ やめっ‥‥ろ」
制止の声があがったが、聞こえないフリをした。
「‥‥ふっ‥‥あ」
荒々しい仕草でその場に押し倒され、わざと響くように声を洩らす。
自分を抱く弟の金髪に指を絡めて引き寄せると、切なげな瞳をしてすがりつかれた。
必死で自分を求める身体をそっと抱きしめる。お兄ちゃん、と呟く声は何故だか泣きそうに聞こえた。
自分自身では何もする必要が無かった。考えるだけですべての事が運んだ。
________________________ 好きだよ
伝えた言葉に嘘はない。
何よりも大切に自分を抱く弟も、以前の面影を追って見つめるかつての想い人も。
自分が利用できるものはすべて好きだった。
あれから太一とは会ってない。
当然のような気もするが、どこか空白感があるのも事実だった。鞄を肩にかけ、家路を急ぐ。
夕日を横目で見ながらアスファルトを踏みしめた。
制服の上から胸を掴むとそこにある心臓の鼓動が聞こえてくる。
自分が今、生きていることが不思議だった。昔「オレ」であったものが死んでしまったというのに、
そんなこととは無関係に身体は生物としての機能をまったく低下させることなく働いていた。
________________________ 見事なもんだ
生命という存在に素直に賞賛を覚える。
所詮身体の中で起こっている命という営みはプログラムされた電気信号の羅列
ということにすぎないということだろうか。
生きていくことだけを目的とした至上のプログラム。
________________________ だったら
どうして苦しい想いを消すことは出来ないんだろう。
こんなにも生きていくのに邪魔なものだというのに。
身体の順応は早い。だが心は違う。
身体の持つ半分の適応力でも心にまわせればこんなに苦しむこともないだろう。
無駄なことだ、そう思いながらも考えることを止めることは出来なかった。
思考を振り払うかのようにかぶりを振る。
マンションに着くと、エレベータのボタンを押した。
小さな機械音を聞きながら、空白の時間をすごしていた。
「
________________________ ヤマト」
ふいに声を掛けられる。聞きなれた声は久しぶりの邂逅に胸を躍らせた。
「どうしたんだ、太一」
振り返ってそこに予想通りの人物を発見すると、ヤマトは悠然と微笑んだ。
最近は遠くから眺めるだけだったその姿は、たとえようもない程の懐かしさを呼び起こした。
「預かったプリントがあったんだって?置いてってくれればよかったのに」
声音を変えずにあの日のことを話題にだす。無表情を装っていた太一の顔に感情の色が映る。
思い通りの反応を引き出せたことに満足してヤマトは続けた。
「でもオレが失くしたってことにしておいたから平気‥‥‥‥‥」
乱暴に肩を捕まれ、ちょうど開いたエレベータに無理矢理乗せられる。
叩き付けるようにして壁に押え付けられると瞳に怒気をはらんだ太一と顔を合わせた。
「なんでっ!」
肩を掴んだままの腕に力が込められる。
「なんでだよっ、オレが悪いのかっ?!」
怒鳴りながらヤマトに詰め寄る。捕らわれた腕を介して震えが伝わった。
何かに脅えている様子は普段の太一らしくなく、その動揺が窺い知れた。
「アレはお前の意志じゃないんだろ、タケルが無理にやったことだろう?!」
涙混じりの声で太一が叫んだ。
頬を伝う彼の涙に心の奥にあった何かが揺れ動いたが、
それが何かを認識するより先に溶けるようにして消えた。
「頼むよ、そうだって‥‥‥お前の意志じゃないって言ってくれよ‥‥‥‥」
深く頭を下げ、祈るように呟く。ヤマトはそんな太一を眺め、微かに嘆息した。その顔が浮かべる表情は、誰よりも冷酷で、美しかった。
「『そうだよ、オレの意志じゃない』、『タケルに無理矢理されたんだ』」
誠意のない言葉を返す。太一の顔色が変わった。
「これでいいんだろ‥‥‥‥他にも何か言ってほしいか?」
望むなら、何だって言ってやるよ。
今なら「愛の告白」だって簡単に口にすることができるだろう。
________________________ でも
お前が本当に欲しいと思っているものは「オレ」には与えることができない。
太一はそれを理解しているだろうか?
沈黙があたりを支配する。互いの呼吸音だけが密室に響き渡った。
重苦しい時間が流れる。
ふいにヤマトの肩を掴んでいた手が解かれ、その手が首元へ移動された。
彼の瞳には明らかな狂気と、一片の殺意があった。太一が何をするのかがわかったが、
抵抗するつもりはなかった。
そのままゆっくり、力が入る。
________________________ ギシッ
圧力が集中して加わり、骨の軋む音が響いた。
気道が狭まり呼吸が苦しくなる。喉の奥で空気の漏れる小さな音がした。
________________________ 太一‥‥‥
心の中で最後に彼の名を呼んだ。その光景に何故だか既視感を覚えたが、
結局それがいつのことなのか思い出すことは出来なかった。
生命が奪われていく感覚に、ヤマトは抗う事なく瞳を閉じた。
________________________ 何て強い人なのだろう
それは彼を見て常に思っていたことだった。彼の持つ耀きはきっとこの世界にある何よりも
強いものに違いない。それは自分にも、弟にも決して持ち得なかったもので、正直うらやましかった。
「
________________________ 自力で抜け出すなんて思ってもみなかったよ」
感動した面持ちで事実を述べたが、彼はその言葉には何の反応も示さなかった。
自分の隣で規則正しい呼吸をしている弟を起こさないようにそっと立ち上がる。
音を立てないようにその場を離れ、力なく座り込んでいる彼と
視線を合わせるように屈んだ。
今なら、誰にも邪魔されることもない。
「オレを抱くのか?」
嘲笑しながら聞く。出来るだけ屈辱を与えるように‥‥‥出来るだけ残酷に。
「そうしたいならかまわないさ、好きにしろよ」
「お前は‥‥‥」
腕を乱暴に捕まれる。
力の加減などしていないはずのなのに、掴まれた腕がまったく痛まないのは彼の体力がそうとう
落ちている証拠だった。
見慣れたはずの瞳には見慣れない感情が映っていて、それが不思議だった。
どうして彼はこんなにも必死になれるのだろう?
そんなに‥‥‥‥‥
________________________ そんなに「オレ」が好きなのだろうか
だとしたら、無駄なことだ。彼はもっと早くにそのことに気付くべきだった。
________________________ だからもう終わりにしないか?
そうすればオレもおまえもラクになれるだろう?
相変わらず微笑を浮かべたままの自分に対して彼の瞳の奥で殺意が過ぎった。
自分の首に伸びた手がゆっくりと力を入れる様を人事のように眺める。
ひどく冷たい色を放つ瞳を覗き込んだまま、死の淵を垣間見る行為は今までに体験した何よりも官能的だった。
________________________ これでいい
悲しいわけでもないのに涙が零れた。
それが生理的な苦しさからなのか、精神的な苦しさからなのかはわからなかったが、
どちらでも変わりないように思えた。
深い安らぎを覚える。このまま死ぬことができるなら、すべてを許すことができるだろう。
こんなにも苦しかった人生や、生きることに疲弊した魂も、きっと何もかも受け入れることが
出来る。
死は開放だった。
自分であったものはもうすべて無くなってしまっていたが、
最後に死を望む矜持はまだ持ち合わせていたらしい。そのことに満足して目を閉じる。
だが、ふいに力が込められた指が首から離された。
「
________________________ できない」
涙を浮かべて彼が呟く。自分の首をしめていた手は、
行き場の無い感情を持て余すかのように何度も地を叩いていた。
「
________________________ 役に立たないな」
吐き捨てるように言う。自分が何のためにこんなくだらないお膳立てをしたと思っているのだろう。
最後のところで思い通りにならないシナリオに苛立ちを覚えた。
「一緒に行こう、オレが‥‥‥‥必ず守るからっ!」
心がさざなみを立てる。意思を捨てた心は何ものにも痛まないはずなのに、
この苦しみはいったい何なのだろう。彼の言葉にひどく動揺している自分に気が付き焦燥を覚えた。
________________________ でも
「無理だよ」
「もう、手後れなんだ」