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<act 5>


________________________ お兄ちゃん
 僕にとってそれは特別な言葉だった。他の何より尊く、大切な言葉。
それは僕だけが使える言葉だった。他の誰もあの人をこういう風に呼べない。 僕にしか許されない言葉。だから僕はこの言葉が好きだった。
________________________ でも
あの人を呼ぶ度に思い知らされる。所詮僕は弟でしかないのだと。
この位置は誰にも脅かされない絶対のものだけど、それ以上には進めない。 あの人にとって僕は兄弟以上のものにはなれない。
 ずっとそう思っていた。




 瞬間、今までにないぐらいの憎しみが湧いた。自分では理性的な方だと思っていたが、 そんなのは表面的なものでしかないということを思い知らされた。 無抵抗の彼の髪を乱暴に掴み上げて地面に押し付ける。鈍い音がして掴んだ腕に振動がきた。 彼がうめき声を上げたが、そんなことはおかまいなしに何度も押し付けた。 指の間から血が流れ出し、それは彼が声を上げる気力をなくすまで続けられた。 止めたのは彼のためではない。このまま死んだとしても自分にとっては一向に構わなかった。
________________________ いや、むしろ
その方が都合がよかった。今の彼は自分にとって邪魔以外の何者でもなかったから。
「その辺にしておけよ」
 水を打ったように静かな声が夜に響いた。兄の声を聞いてやっと冷静さが戻ってくる。 掴んだ髪を放りだすように離して、力なく横たわっている兄の側に座り込んだ。
「‥‥‥‥お兄ちゃん」
声は思ったよりずっと掠れていた。手を伸ばして兄に触れる。 首筋にはっきりと残る凶行の痕を確認して泣きそうになった。
「許さない‥‥‥」
この人を傷つけるものは誰であろうと許さない。
「もういいよ、平気だ」
「‥‥‥‥でも」
「平気だ」
有無を言わさない口調で言われ、それ以上の追求はできなくなった。
________________________ 少し、眠りたい」
 引き寄せた頭を胸に凭せ掛けると声に疲労を滲ませて兄が呟いた。 考えてみれば今日は疲れることばかりだったような気がする。 兄のことを思いやれなかった自分に気付き、自分勝手な行為の残滓に歯がみする。
「お兄ちゃんは休んで。僕が側にいるから‥‥‥」
「ああ‥‥‥」
長い睫を二、三度瞬かせた後、兄はそのままゆっくりと眠りに落ちていった。 腕の中で死んだように眠る兄を見てそっと起こさないように抱き寄せた。
________________________ お兄ちゃん」
規則正しい寝息を確認する。
大丈夫、この人は生きている。
自分の血を分けた唯一の存在。他の誰も自分達の間に入ることはできない。




「お兄ちゃん?!」
 玄関先で倒れていたヤマトを見てタケルは慌てて兄を抱き起こした。 普段から白い肌はいつもよりさらに白く、閉じられた瞳は苦悩を描きだしている。
「‥‥‥‥お兄ちゃんっ!」
涙声になるのを止めることができない。腕の中でかろうじて呼吸をしているヤマトは 少しでも目を離せばそのまま死んでしまってもおかしくないほど生気がなかった。
「‥‥タケ‥‥ル‥‥か?」
胡乱気な表情でヤマトがおもてを上げる。 白濁した瞳にはタケルを捕らえてはいたが、実際には何も映しだしていなかった。
「どうしたの、何があったの?」
たたみかけるように聞くと、ヤマトはふと笑みを浮かべた。 それは普段タケルが見ているものと同じ表情だった。何でもないと安心させるように浮かべる笑み。
________________________ 昔と変わらない優しい‥‥‥
 心が震えるのが分かった。
何か大切だったものがあったはずだった。自分にも、兄にも。
いつから自分達はそれを置いてきてしまったのだろうか?
 ふとそんな考えが脳裏を過ぎったが、すぐに今置かれた状況を把握し、 慌ててヤマトを抱え上げて室内へ運んだ。
「何か飲む?水持ってこようか?」
自室のベットへそっと横たえるとヤマトに聞くが、兄はそっと首を横に降った。 ただじっと疲労の影を浮かべてタケルを見つめている。
「神様なんているのかな、お前は信じてるか、タケル?」
 唐突に聞かれた質問にタケルは兄の意図するところがわからずに首をかしげた。
「どういう意味?」
「何でもないよ‥‥‥ただ、何かを好きなように決められるのはそういう存在だけかと思っただけだ」
口調こそ変わらなかったものの、まるで吐き出すような台詞に眉をひそめる。 いったい何がこの人の心を捉えているのだろう。
「命とか‥‥‥自分のものぐらいは自分で好きにできればいいんだけどな」
 そこまで言うとヤマトはそっと目を伏せた。 白い肌に伝わる透明な滴が頬を介してシーツに染みを作った。 それは止まることなく流れ落ちる。悲しみだけが色濃く存在するその表情にタケルは心を奪われていた。
________________________ お兄ちゃん‥‥‥」
「他のすべてのものと同じように心も、そんなものどうでもいいって思えれば。 でも駄目だな、オレには。そんな風に思えるほど達観できない。少しずつでも自分を切り捨てないと」
「でないと、あいつもお前も傷つけてばかりだ‥‥‥‥」
最後の台詞は消え入りそうな声で呟かれた。すでにタケルに話すというより 自分に言い聞かせているという感じで、なすすべもなくタケルは見守るだけだった。
 何も出来ない。
それはタケルにとって何よりも辛いことだった。いつも兄は自分の知らないところで苦しんでいた。 そしていつも自分は何も出来ない。何も‥‥‥‥‥
無力さを痛感する。強くなりたかった。せめてこの人を守れるくらいには強く。
「少し、休んだ方がいいよ、僕ここにいるから」
小さく震えている兄を宥めるように涙を拭う。虚ろに開かれていた瞳がそっと閉じられ、 しばらくすると寝息が聞こえてきた。
 ヤマトが眠ったのを確認するとタケルはそっと兄に手を触れた。
________________________ 太一さんだね」
 首筋に残る痕。はっきりと色が変わっているその場所に指を這わせる。 痛々しい痕はその場で行われた行為を如実に表していた。
タケルの瞳がすっと細められ、兄に見せる表情とは全く正反対の色を浮かび上がらせた。 指で触れた場所からヤマトの体温が伝わる。その温もりを氷のように鋭い刃に変え、 ここにはいない標的を捕らえた。
「もう手加減なんてしないから‥‥‥」
 固く誓った兄への想いだけが今のタケルのすべてだった。




「あなたが死んだらお兄ちゃんは悲しむのかな?」
 足元で無様に倒れている彼の鳶色の髪を掴むと顔を覗き込むようにして話し掛けた。 まだ固まりきっていない血がぽたぽたと滴になって落ちる。彼の精悍な顔が苦痛に歪んだ。
________________________ まだ足りないよ
兄が苦しんだのはこんな程度ではないのだから。もっと痛めつけなければ。でないと公平でない。
「気付いてる‥‥だろ、お前‥‥だって」
________________________ 何が言いたいの‥‥‥」
乱れる呼吸をついで彼が自分を見た。 身体の苦痛は相当なはずなのに、その視線には一辺の迷いも見られない。 本当に、呆れるぐらい強い人だと思う。 こんな状況なのに変わらず意志を持った瞳を自分に向けてくる。 裏表のないその精神は驚嘆に値する。自分は彼のそういうところは嫌いではなかった。
________________________ でもさ、許さないよ、絶対に
 彼が兄にしたことは何があったとしても許されることではなかった。
ふと彼を掴んだ腕を握られる。
血が腕につく不快感がする。 まだ抵抗する気力があることに驚きを覚えた。
「あれは違うっ、オレやお前の知ってる‥‥‥」
「お兄ちゃんだよ、馬鹿なこと言わないで」
言葉を遮って言う。自分の中にある暗い部分が危険だと音を立てていた。
「それとも何、自分が振り返ってもらえなくなったから違うっていうの? あんまり情けないこと言わないでよね」
クスクスと楽しそうに笑いながら髪を乱暴に持ち上げた。 誰かを痛めつけるのは簡単だった。それが兄に害意を持つ相手なら特に。 何の手加減もしなくていい状況に歓喜すら湧く。
「違っ、アレは本当に‥‥」
捕まれた腕を手荒く振りほどき、彼の髪から手を離す。 乱暴に地面に投げ出された身体を力まかせに蹴り上げた。
「‥‥‥‥‥だから何‥‥」
骨の軋む嫌な音が響く。腹部を痛打する衝撃で彼がうめいた。 すでに何度も痛めつけた身体はさすがに限界を越えていたが、それでも全く容赦はしなかった。 止まりかけた血が再び開いた傷口から滲むまで何度も蹴り付ける。
「何も‥‥‥何も知らないくせに、わかったような口を聞かないでよ‥‥‥‥‥」
 兄がどれほど苦しんで傷ついてきたかを自分は知っている。 いつも一番近くで見てきたからそのぐらいはわかる。 彼が兄と出会うずっと以前から兄だけを見てきた。 何も出来なくても、せめて見守るくらいは許されるだろうと、 それだけを支えにここまできたのだから。
________________________ だから僕は裏切らない
 たとえ変わってしまったとしても、いつも優しい面影を自分に見せてくれた兄が いなくなってしまったとしても。それがまったく違った存在になったとしても自分は、 自分だけは絶対にあの人を裏切ったりしない。
 必ず味方でいる。何があっても。
何の見返りもなく、それが正しいことであるかさえ関係なく、ただ常に兄の味方でいること。
________________________ それだけが僕の存在意義
 だからこそ彼は邪魔だった。純粋な正義感はいつも無遠慮に周りの者を傷つける。 彼はそれに気付きもしない。誰もが彼のように強いわけではないのに。
今だって自分に対する憎しみは二の次でしかないに違いない。
正しくて、優しくて________________________ 何て独善的なのだろう
 そんな彼の行為がいつも自分の黒い部分を引き出し、大切なものを奪っていくのをきっと彼は知らない。 その度に自分がどれほど薄汚い存在かを思い知らされるということも。 何も知らないでいる彼がたまらなく癪にさわった。 悪意がなければ何でも許されるとでも思っているのだろうか?
「だから、もう終わりにしようよ」
 そういうことすべてを、最良の形で終わらせてしまえばいい。 これ以上自分達を振り回すのはもうやめにしてほしかった。
 強い意志を覗かせる瞳を見つめながら小さな声で、 だがしっかりと聞こえるように耳元でささやいた。それは今まで何度も夢見た場面だった。




________________________ さようなら
きっと信用しないだろうけど、僕はあなたのことも結構気に入ってたんだ。





手に持ったナイフが一度だけ月の光を反射させて輝いた





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