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巨石信仰の史跡を訪ねる−7
動石・その他の岩

参考・引用文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会
 中根洋治 著 平成14年発行
 西中金のおわせ石
 「おわせ」とは古い言葉で、男と女の意味を合わせたもので、今の当地の地主が名付けられたという。現地には、「おわせの宮」として祀ってある。祀られたのは平成元年で、山の傾斜から突き出たその長さは4mほどあろうか。現地は江戸時代の「信州街道」沿いにある。この道は矢作川と川船で古鼡(ふっそ=現在の扶桑町)まで運ばれた塩などを足助・信州へ運ぶルートであった。


 足助町の風天洞  東加茂郡大字大蔵

 県道の三叉路から参道を10分間ほど歩いて登ると岩屋が目にはいる。形が瀬戸市や足助町岩屋のものとよく似ている。この大きな岩を支えている3個ばかりの石は、形が整っていてまるで人工的にここに据えたように見えるが、これも自然の妙なのであろう。上に乗る大岩も形が整っていてひび割れも少ない。岩屋の中へはいると天井に仏様が描かれていて仰向けに見られるようにベンチが置いてある。
 昭和40年頃は参道の仏像は今ほど多くなかったが、今は沢山のインドや中国系の像が設置されている。
 岩屋に接した観音堂は「岩戸山観世音」と呼ばれ創建は治承二年(1178)で、現在のお堂は正保二年(1645)この地と縁の深い旗本の原田種照により再建された(寺伝)。本尊は一寸八分(約6p)の観音像で原田家代々の守護仏となっており、慶長20年(1615)の大阪の陣へ出掛けて活躍した原田種照も肌身離さず身につけたものであろうと思う。
 なお、隣の寺は元天台宗の道場として修行の場でもあったと伝わるが、現在では浄土真宗の岩戸山覚山性院(弘化4年焼失したが再建)である。
 裏手には治承の頃から続く原田家代々の立派な墓石がある。
岩屋の背後には風天洞と呼ばれる真っ暗な胎内巡りがある。長さ数百メートル。花崗岩の岩と岩の隙間を縫うようなトンネルは長い。  
                              
   足助町則定の盃状穴 


 盃状穴は、例えば縄文遺跡の岐阜県山岡町の雨洗美(あめわらび)巨石群とか弥生時代の支石墓(福岡県:三雲遺跡)などその他にも各地にある。
 このような盃状穴は、原始時代から江戸時代まで続いた豊穣を祈る習慣に必要なもので、元来は自然石の巨石に穴を穿ったものだそうだ。
 則定は江戸時代の足助街道が通っていたところで、そこの説教場の手洗い鉢に盃状穴を確認することができる。時代は近代のものと思われるが、穴の大きさは直径と深さは10pを超えるもので、石は花崗岩である。
 穴をあけることによってそれが女性の性器に例えられ、玉石を擦りつけることを性行為と信じ、生産・豊穣を祈願したものであろう。このような呪いは江戸時代まで続いた。
   石楠町の動石(ゆるぎいし)の岩 


大楠地区の集落にある丸岩から南へ登った山腹にある。
 この動石(ゆるぎいし)はその名が示すごとく大人一人でも揺り動き今にも落ちそうな状況に見える。岩の上には一つ葉が茂っていて、地元の人々からは親しまれてきたが、とりたてて信仰の気配はない。このあたりには巴川の橋場がある。昔から巴川の渡場として絶好の岩があるところだ。
 巨石がほぼ等間隔に川を横切って並んでいるところは珍しい。通行者にとっては誠にありがたい岩である。岩には古くから橋が架けられたようで、その痕跡がついている。右岸に渡れば山の上が「酒呑
(しゃちのみ)城跡」である。
 ここは松平地区の山奥より挙母をつなぐ街道の一部であった。
   足助町菅生(すごう)のゆるぎ石 字入洞









 国道153号線は、足助の町を通り過ぎると、川から離れて急坂になるが、現地へは川沿いに進み「萩野小学校」の手前を北へ入っていく。菅生の集落が途切れたカーブのところで、車から降り尼寺跡の裏山へ谷沿いに登ったところである。この岩は山の急斜面に在って、なるほど今にも落ちそうである。
 地元の人によると一人でも揺らすことができるそうだが岩の底が斜め下に傾斜した岩と接しているのみなので、動かせばジリジリと必ずしたに移動しそうに思う。現在信仰の対象にはなっていないと聞く。
名前は付けられていないようだが、とても印象的な”滝”がある。



滝の反対側で、現在の県道の方に”三角山”と「石動神社」があり、境内には大きな磐がある。この社は北陸能登半島の”石動神社”から分神してきたと伝えられている。西側から見ると三角形の山は形が整っていて、その麓に神社はある。


もう少し町の方へ戻ってみると、国道153号線が折れ曲がったところに、「尹良(ゆきよし)親王袈裟掛岩」がある。この付近の地名は「今朝平」となっている。」
                  
    
     旭町の行者さま  大字牛地


 昭和46年、矢作川の上流に「矢作ダム」ができた、水没した牛地集落の奥の方・駒山に上る道の途中にある。


 この「小馬寺」は、その昔「ハクホー寺」と呼ばれていたが、明治になって猿投神社の白鳳さんと紛らわしいので改名されたと聞く。
 土地の写真集にはダム建設以前の風景が編集されたが、これには『生駒山の行者さま』と記されている。山肌から庇状に長く飛び出た岩の下に石作りの行者像がある。
 ”駒山”と称される山の頂上には「小馬寺」と呼ばれる廃寺がある。この山は飯田街道から離れたところにあるが、昔は旭町の「伊熊」から「ナガエ坂(長井坂峠」を越して段戸山を渡り駒山に至る道があったという。しかし、その先に奥山に通じる道はないらしく、「田津原」から尾根伝いに「富永」に通じる古道からも離れている。
 この人里離れた山奥の大寺に、なぜ絵馬が沢山奉納されていたのか、謎は深まる。
 樹齢600〜700年とおぼしき杉の古木が二本並んで在り、その間を通って本道から鐘楼跡らしき所に行く。本堂は荒れ果てて崩壊寸前の状況であった
(平成8年現在)
 

   豊田市 松平城跡付近の岩


 左は、館の存在した頃の平面図である。(「松平町誌」による)

 右は、松平地区の水系図。(同)
 国道301号線が大きく曲がったところの北側山頂に、「松平城跡」とその南中腹に岩と祠がある。
ここの北側には、徳川発祥の地として「松平東照宮(館跡)」と、「高月院」がある。
 さて、この岩へは井戸跡を訪ねて歩くとそこのすぐ南にある。岩が庇状になっていてその下に石祠があるのだ。しかし、これが何を祀った神様よくわからなかった。徳川家初代の親氏
(ちかうじ)が城を築くときも、その後の城主も、岩はそのまま残した。
 地元の住民に聞くと、当時地元に在住していた近藤家(元当地の庄屋)が祀っていたという。
 近藤家は松平城の剣術指南役だったというが、大正時代に富山県に引っ越し、戦時中の時期、富山県知事になったという。
 なお、「松平東照宮(館跡)」の東に「八幡神社」があり、その裏には「神体石」と称される岩がある。徳川家から代々信仰されている。この岩は、『七色に変わることがあって、変わるときに汗をかく』と、伝わっている。
 神社前には徳川家代々使ったという”産湯の井戸”があり、これを弁天さんが見守るように隣に鎮座している。昔は、この境内へは履き物を脱いで入ったと言われている。


 他にも、、山頂の城跡に大岩がある所は西の大給
(おぎゅう)城、足助の飯盛山城、黍生(きびゅう)城などがある。

松平城は昔挙母街道と松平往還(足助裏街道)の交点に当たる。挙母街道は、新城と豊田市を結ぶもので、江戸時代までは松平城の北から坂峠を通っていたが、明治26年以降現在のルートになったという。




松平往還は、松平城主が参勤交代に際し、渡通津(わつづ)をへて東海道の大平へ向かったものと推測される。また、足助街道は税金を取ったりして、取り締まりが厳しかったので、江戸時代は岡崎城下から足助までの間はこの街道をよく使ったと言われる。「足助裏街道」と称される意味がこれで理解できる。
このルートは岡崎の城下から駒立
(こまだち)付近で、松平往還に合流して足助に通じるものである。注:「岡崎市史」にも関連記事がある。


   参考文献:
「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会 中根洋治 著 平成14年発行

      上記の文献には、実に多くの踏査報告があるが、
          当管理人の住まいする付近に存在する部分のみを抜粋して引用させて頂いている。
 補: 「塔」 梅原猛著作集 集英社 より抜粋    91頁 「神が社を必要とするとき」の、 冒頭から
 古代日本人の信仰について、最近の研究はすでに多くのことを明らかにしている。
 日本の神信仰の最初の形は決して神社信仰ではなかった。古代の日本人にとって、神は石や木に宿るものであった。「神奈備山」
(かんなびやま)といわれるあの笠型の形の良い山、その山に神が降りてくる。
 しかも神の降りてくるのは、尖った岩や高い木を通じてである。私には山の上に聳
(そび)える高い木に神が降りてくるという信仰が心理的にわかるような気がする。その高い木は、天と地を結ぶものである。天と地を結ぶ古い古い高い木、それは天と地の接点であり、そこにあらゆる生物の根源がある。天国と地獄の接点、すべてのあらゆる存在するものの原点がそこにあると、古代人たちは考えた。
 それは極めて形而上
(けいじじょう)学的な思惟(しい)であった。
 このような木とともに、岩が神の宿る所となった。磐代
(いわしろ)である。
 この岩は、やはり尖った形をした水晶性の成分を多分に含んだ裂目のある岩が多い。そういう尖った光り輝く裂目を持った岩に神は降りてくるというのである。この岩は永遠の相のもとにある。
 古代人にとっても現代人にとってと同じように、永遠なるものは大いなる魅力である。かくしてその永遠なるものが光り裂け天に連なっているとすれば、その姿の中に古代人が神を見たのは当然かも知れない。そこにやはり深い形而上学的な思惟がある。こういう形而上学的な存在の畏怖感をわれわれは今すべて失っている。笑うべきなのは古代人ではなくして、われわれ現代人かも知れない。
 こういう山崇拝、木崇拝、岩崇拝を持っていたわれわれの祖先にとって神の宿る社をつくるのは思いもよらないことであった。
 自然の中にこそ神が宿るはずなのにどうして神が社を、宿りを必要とするのか。古代の日本人は神社無き神崇拝に生きていたのである。

 例の『魏志倭人伝
(ぎしわじんでん)』にある卑弥呼(ひみこ)の統治する邪馬台国(やまたいこく)の話の中に神社の叙述は出てこない。あれほど邪馬台国の宗教に強い関心を持った『魏志倭人伝』の作者が、神社を見たとすればそれについて語らないはずはない。
 彼は神社を見なかったし、従って三世紀末の邪馬台国には神社がなかったと見た方が自然なようである。そして最も古い信仰の名残を留める大和の大神
(おおみわ)神社には神殿はない。山が神体なのである。 (以下省略)   
                       
                                 
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