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-六所神社 山道入口と  ”-

 昔は、提灯を持って元旦には日の出を遙拝しようと、皆、ここから登ったものだ。子供だった頃、父親と母親の間に兄姉が歩いて登ると、松明(たいまつ)を灯しながら下っていく参拝者と会ったりもした。前後に人が見えて、結構、参詣者は多かったことを覚えている。その様が脳裏に残っている。
 今は、車でも近くまで行くことのできる別の道ができた。
 2003年度、この道を整備した。
 この鳥居から、枯渇してしまった”滝”までの山道を、氏子の皆で工事をした。
 この入口から、およそ300mも歩くと、下の写真でお示しする”お滝”の場にまで到達する。
 ここから、下を望むと料理屋旅館がある。ここで、昼食をお願いしながらゆっくりと散策するのもよかろう。
           
 この写真の右端に、山道の入口があるのだ。割烹料理屋「六所苑」から30mも登ったところにある。
 そこでに、『六所苑』に立ち寄ってみた。
 昼食を頼むと、一寸酒なんぞもやりたくなる。

 アマゴの塩焼きや、いろんな料理が結構田舎にしては美味しいのだ。

 因みに、『六所苑』は、
 п@0565-58-1164 だ。
 ここのホームページは
  http://www.rokusyoen.burari.biz/ です。

 店の玄関にはいると、自然木を活かした腰掛けがある。ここで、何にも注文しなくっても、しばらく話を聞いてから、登るのも一興である。 なお、
 この上に、『大澤館』なる料理屋があった。 ここも旨い! (・・・体調を崩されて閉館されました。)

 そこは、歩いて200m上だった。
 
 さて、鳥居をくぐって山道に入る。
 ここから300m程のところに、”御滝”はある。
 ここまでは車ではいることも可能だ。


 
原生林となっている。枯れた木はそのまま倒れて朽ちている。
 ここからは、徒歩で数十メートル歩くと、「御滝
(おたき)」に到達する。
 2004年、この滝を復活させた。
 古木が鬱蒼としている。
 自然のままを、大勢の方々に愉しんで頂きたいものである。
 ここからは、獣道
(けものみち)のような山道を登って、「本宮にまで散策を愉しんで頂けたら、・・・。」氏子(うじこ)達は、皆、そう願っているのだ。
 ”自然”は、みんなのものだ。
 滝が見えてきた。

 道のようで、実は道でない?!

 そんな山道である。

 もう少し手を加えて、

散策路にしてゆきたい。

(永年、この辺りから参道らしく整備したら・・・?と思っていた。)
 季節の野草が花を付ける。

 誰も見てくれなくても、

 野草は、清楚な花を付ける。
 滝までへの途中から、車を撮ってみた。







 
そして、「御滝(おたき)」に到着だ。

 氏子
(うじこ)達の念願の、水の流れ落ちる滝になった。

「郷社六所神社図記」
:(年代未確認)による。
 
上は、戦争前の御滝(右上に灯籠がある)
 
「身も口も そそぎ清めて
滝川の 心のあかも
おとせ 諸人」
天然の水である。水量は僅かだが、これは清水である。
この滝場までの間に漏水していたのだ。
 もう一度、来た道を撮ってみた。

 この滝から本宮までの道は、

もっと険しくなってくる。
 写真の説明に、松平氏始祖”親氏(ちかうじ)”とある。1377年のことであった。
  村の氏子の皆様にお願いして、2013年、この”御滝”を整備させていただくことにした。
 水は「いのち」である。 「いのち」そのものだ。 古来より、この滝の水で手を洗って神社の参詣に登ったものであった。
 今はもっと上から参道の途中に入って登山し参詣するようになった。 しかし、水で手を洗うという場所はここだけである。
 
 何とかこの場所に人が集うようにしたいのである。 そこで、万木園さんにお願いして工事をしていただいた。岩煙草も咲いていた。 


 この説明盤を新調しました。
   
     
   

万木園(0565-58-0712)の経営者:大橋成友氏。 (実は、私の妹の次男です。)
  
先代の経営者:大橋雅春氏

(この翌年に急逝)
   登山者が多い。 山草の開花時期をよくご存じであった。
 


  松平太郎左衛門親氏、吉木山に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。
1377

長慶 後円融 足利義満 永和 3 8/19'松平太郎左衛門親氏、吉木山(又は芳樹山と称す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。
 猿田彦神
(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神として奉拝していた。
 その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、蜂ケ峰
(はちがみね)神社となった。注:社伝「朝野襃藁(ほうこう)」による。
  
 「寂静寺」親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから高月院と改め松平氏の菩提寺となる。

 '8/菊池武朝、北朝軍に大敗。高麗、倭寇禁止を要求。
  
       ☆高月院。   高月院に詣でる
河曹洞宗 高月院墓所
1394 後小松 足利義持 応永 1 4/20高月院松平氏墓所宝篋印塔建立・初代親氏。
  
 中島郡下津
(おりつ)の伝法寺跡に、通幻寂霊を勧請開山として、小牧市に正眼寺(しょうげんじ)建立。
 千鳥寺(千鳥町梨ノ木:この地方の曹洞宗の中心寺院)、足利義満の子天中良運が、弟子達を伴い創建。後
(1623)に鈴木正三がここで荒行。
 足利義満太政大臣となる。
 一休宗純
(1394〜1481)生まれる。

 注: 
鈴木正三に関して  巨石信仰ー2 
 
 この時(1377)以前は、この山自体に霊気が宿るとして、地域住民の信仰の対象となっていた。
 ご神体は、「大山祇神
(おおやまずみのかみ)」という神である。(現:大河原宮司)
 いま、隠居神「蜂ケ峰神」として、本宮の奥に鎮座している。
 ここ、御滝からしばらく登って本宮に辿り着く。
      Link     参道から六所神社・本宮へ
☆ 山頂の一番奥・・・・そこに 俗称”蛇神(へびがみ)さま”
 隠居神「蜂ケ峰神」の屋根を修理しているときに、大きな白い蛇がそこにいたという。

 その後、時の宮司(坂本氏)が、蛇神として、隠居神の裏に、このように祀ったものである。

 みすぼらしく哀れである。

 何とか、新しいものに返させて頂きたいと、しばらくの間、そう思っていた。
 
 ”奉祀六所明王”と記されている。
      
 『明王』とは、・・・・

 
仏の化現の一面で、教化しがたい衆生を折伏して救済する方面を司り、多くは憤怒のすがたである。
 不動明王などの五大明王,愛染・烏枢沙摩
(うすさま)・大元帥の明王や金剛童子があるうちで、孔雀明王のみは慈悲相である。
 また、『明神』とは、・・・
 
神仏習合説によって仏教側から呼ぶ神祗の称。
 明は仏徳の輝くことを光明で象徴した意(明王など)。
 権現と共に平安時代から次第に使用された。


         「佛教語大辞典」 中村 元 著より
 村の気のあった仲間と、3月31日見に来た。
 小生、本日
(H6.3)を以て定年退職。
 実に長い間、氏子達は、必ず、忘れずにここに来て手を合わす。

 彼(S氏)も、同意した。
 二人で出資して、新しい社に入って頂くこととした。
 村の氏子の皆様にも、お許しを頂くことができた。
 7月8日。ご覧のように長野県で入手。
 4WDのマイカーに積んで、二人でここに安置した。
 結構、重かった。
 隣の石を石鑿でハツって、水平をはかって台座を安定させ、一応の形にした。
 7月18日。宮司様にお願いして、ここに新しいご神体を移す手はずになった。その後、木製の社は謹んで解体処分する。
 暑い日であった。汗をかいた。
 
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