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巨石信仰の史跡を訪ねる−6
腰掛・物見岩


参考・引用文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会

 中根洋治 著 平成14年発行

Link  巨石信仰の史跡を訪ねるー7:動石・その他の岩   
 稲武町の親王腰掛石    北設楽郡・大字御所貝津
 
稲武町の旧飯田街道沿いにある四角い石がその伝説の石である。

 写真の四角い石は、国道拡幅工事に伴って昭和39年に下流から150mほど上に移設されたものだそうだ。


 
親王は、尹良(ゆきよし)親王のことで、郡誌に『この岩はかつての磐座と言われ、石の上に上がるとバチが当たる』と記されている。 
 川手から恵那の方へ向かう国道257号の旧道は、漆瀬橋が出来る(大正6年)まで大字御所貝津字笹平を通っていたようで、この峠には尹良(ゆきよし)親王ゆかりの祠がある。
 親王はこの付近に一時住んでいたともいわれ、ここで詠まれた歌の一つに

「ほのぼのと
  明行く空を眺むれば
   月ひとりすむ 西の山かげ」というものがある。

 
さて、尹良(ゆきよし)親王は南朝方後醍醐天皇(注:治世1331〜1338年)の孫と言われ、父宗良(むねなが)親王とともに信州下伊那郡大鹿村の三伏峠の麓に逃げのびた悲劇の親王で、同郡浪合村で戦の非を認め自刃したと伝わる。
上記の年代記述には疑問がある。
 資料によれば、尹良(ゆきよし)親王は、村上朝の実力者右大臣藤原師輔の長男であり、天禄2年(971年)摂政太政大臣に昇っている。次男(弟)は兼通。・・By Wikipedia
 
俗に言う加茂族。
 
400年ほどの違いがある。????? 原本には出典が明らかにされていない。 
 こうした謂われから、三河山間部の稲武町・足助町・豊根村などには尹良(ゆきよし)親王の逸話が多く残っている。尹良(ゆきよし)親王の子・良王(よしたか)は津島神社の神主になったとも伝わる。
 この腰掛石の傍らには、写真の道標とか、馬頭観音などが集められている。道標に刻まれた「川下の奥山半僧坊」は、静岡県引佐
(いなさ)郡引佐町にあるもので、「川上天照皇大神宮」は、伊勢神宮内宮を指している。

 みり石    豊田市石野地区


 
以前は石野村であった。
 
 この岩はここの地名の元になった岩だと伝わっている。

 当地は、西中金町から芳友町へ行く道の峠を北に越え、最初の家の東を見取り図のように山に登ったところにある。
 


 
かつて、この岩の近くに住んでいた生田氏(現在豊田市高上町に在住)にきくと、この岩は昔は尾根付近にあって、石の上から室の集落が一望できたという。

 そこでこの名が付いたとのことであった。

 五畳ほどの広さがあり、この付近の土地はゴルフ場となっている。
   この石までは、生田氏の家の前を通ってつづら折りに藪となっている場所の中を登って行くのだ。土蔵がある。これが現在豊田市高上町に在住される生田氏の屋敷跡である。その先に山上から移転(平成3年ゴルフ場の経営者による)された「山の神」がある。ここから更に尾根を目指す。すると、東側にそれと解る大岩が累々と重なっている。一番南側の  石は高さ3m長さ4m、暑さ1m程。今、周囲は竹や杉が伸びている。
 戦国時代、東広瀬城が家康に滅ぼされて、逃げる途中この岩にたどり着き、「東広瀬」の方向を振り返り、『残念!』と言いながら手をついた岩に手形がついた。このような伝説から「手形石」と呼ばれた石もあったが、後に小割にされて手形のついた部分のみが残っていたが、いま、いくら探しても無いとのことであった。
                              
    烏帽子岩(家康の腰掛石)  豊田市水間町








 
高橋中学校裏にある。この岩は、現在地面から2m程の高さであるが以前周辺の土地はもっと低かったという。
永禄元年2月、家康は当時今川方で、織田方であった寺部城の鈴木日向守を攻めた。
  寺部城は難攻不落。戦いは翌二年・三年に渡り繰り返されて、永禄3年(1560)家康は二千の兵を率いてこの車坂・水間で会戦した。
 この折、広瀬城の三宅氏も家康の敵に回ったが、家康は激戦の末何とか勝利した。
 この戦いの時、家康が岩の上で指揮をしたとか腰掛けたとか言う言い伝えになっている。
 永禄3年、広瀬城の三宅氏討伐のために、家康は兵を二つに分け、古鼡(扶桑町)の古鼡坂でも戦いになった。そこへの道中となる百々町の山の上にも「家康の腰掛け岩」があったが、現在県道沿いの旧家今井氏の庭にある。
 さて、この戦いは家康(元康)にとっては初陣であった。岡崎からの寺部攻めは都合四回行われたそうである。
   豊根村の御所石   北設楽郡豊根村大字坂宇場 


 
愛知県内最奥の集落、国道151号線を北に進んだところである。この碁盤石は川宇連(かおれ)神社のすぐ前にあるが、神社は昭和45年まで尹良(ゆきよし)神社と証されていた。が,この付近に居館を作っていたと言われている。
 字名は「御所平」である。


 
毎年5月3日の”尹良(ゆきよし)親王様のお祭り”には、この碁盤石にしめ縄を張って神事が執り行われる。この岩は、尹良(ゆきよし)親王の大きな立像の脇にあるが平成3年まではこれより東100mのところにあった。神社付近は天然記念物「ハナノキ」の自生地である。
 御所平には、更に、「御所石」と呼ばれる親王が腰を掛けたと言い伝えられる四角い石がある。その昔砦山の合戦で不利と見て信州に逃れる途中、しばしの間ここにとどまったと言う話による。
 ところで、この地は江戸時代には川宇連(かおれ)村と言っていたが、カオレとは”川の奥の行き止まりで、川の曲がっているところ”と言う意味らしく、奥三河には沢山ある地名である。




 『隠れ家』の伝説:それは城を追われた姫と家来の中間(ちゅうげん)の逃避行の話である。二人は、納庫への道を急いでいたが、足助の大多賀で一軒の家に立ち寄り小休止をした。その家は今でも「隠れ家」と称されるが、追っ手が来ても自分たちのことを内密にしておいて欲しい旨を頼み、その後駒ヶ原の方面を目指した。追っ手は隠れ家に来て、金銭を交換に件の二人連れのことを聞き出し、納庫の森田という所においてその二人を捕らえてしまった。
 姫はその場で牛馬による股裂きの刑に処せられた。相手の家来は駒ヶ原の「牛渡し」と言う所まで連れ戻されてそこで処刑されたという話である。「隠れ家」では、瓜を作ると中味が血の色になってしまうので、その後「瓜だけは作らない」と言うことである。
 家来の処刑されたその場にはかつて「仲間塚」があったが「段戸山牧場」の造成の折に無くなったらしい。

 場所は、足助から南信州に辿り着く”謎”の道である。そこは高圧鉄塔の連続したほぼ直線の街道で、この地区では江戸時代から因縁の伝説が伝わっている。
 しかし、不思議だが、このような話は納庫の森田以外に、稲武の小田木
(おたぎ)にもある。
 この道筋には城跡が沢山あること、馬頭観音や木地師の墓などがあることから、今、痕跡として残っているこの道筋はかつての街道であったろうことが推測される。しかし、南信州に通じる飯田街道の旧態とは考えにくい。
   物見岩    稲武町


 井ノ入ルートから登ると、標高差が少ないので40分ほどで到達する。
 「井ノ入」と言うのは、昔からの水源地らしく、今も稲武町の浄水源として堰(せき)がある。この水は国道153号線の「地蔵峠」を経て稲橋の町に届けられている。
  さて、「城ケ山」の頂は中世の「夏焼城」跡であったらしく、1000u程の平地があり、南西の少し低い所に堀切り跡とか曲輪跡と思しき平地がある。いわゆる南北朝時代の南朝方の城跡と推定されているようだ。

 ところで、「物見岩」だが、山頂から北方の夏焼方面に少し降りた中腹にあり、古めかしい踏み台用の石も確認できた。
 さて、このルートを登ると「衝立岩」と称される垂直面の岩がある。この辺りにはこの他にも垂直面の岩がある。ここを更に登ると、「ブナの木峠」に着く。今はこの辺りにはブナの木はない。ここは一つの峰であり、頂上に岩群があり、村民の信仰の対象としてふさわしい雰囲気を備えている。だが、祠はなく村民からそれらしい伝説も聞くことはなかった。「城ケ山」より高い感じがした。「城ケ山」は、別名”城ケ峠”、あるいは「大峠」とも言った。先の「ブナの木峠」と同様に独立した峰を”峠”と言うのは興味深い。他にも、東海道自然歩道の足助町「富士見峠」も、寧比曽(ねびそ)岳の北側の山頂を言う。同様に、津具村・東栄町・豊根村境の「大峠」と言う山も標高953mの独立した峰で、街道が通っていたとは思われない。(略)峠は一般的に山脈の一番低い所を越している。
 しかし、戦国時代から「峠」と言われる東海道事前歩道鳳来町・設楽町境の「樫谷下峠」とか「大多賀峠」などのように、「与良木峠」や「伊勢神峠」より高い位置にある。古い時代ほど街道は高所を通っていたとされるが、それにしてもこれらの山頂を街道が通っていたと言うことは理解しがたい。おそらくこれらの「峠」では手向けの行事が行われたのかも知れない。
                    金勢様
    
      陽石  足助町本町
 国道153号線から足助橋・県事務所方面へ進むと、道角の「庚申堂」にある。そこには『この地域屈指の大きなものです』と説明書きがしてある。
 加工の跡はなく天然石のようだ。 花崗岩で、高さ80p、周りは1m20p。土地の道祖神でもある。 腰から下の病気一切を直す神様として、特に婦人のお参りが多かった。 しかし、こういう形だから人気の無いのを見計らってこっそりとお参りする。
 一時期、こういう金勢
(こんせい)様は淫祠とされて貶された時期があった。
 そのころはこの陽石はお堂の裏に祀られていたそうである。
 今は正面にある。この隣には女陰と思しき小型の石も置かれている。


注: 金勢(こんせい)様。 ・・同 書 より

 石や木で男根を形取ったご神体のことである。
 生殖の神として縄文時代から信仰を集めてきた。
 「金精
こんせい」とも書いたりする。豊田市地方では、別に「磯神(いそがみ)」「青麻(あおそ)」さんとも言うそうだ。

 これは、また、「道祖神」=「塞
(さえ)の神」として村境に置かれ、災難防止の願いが込められた神とされている。
 生殖の神は、小宝や縁結び・安産・婦人病または作物の豊作の神として、崇められてきた。
    本座峠の岩神  東加茂郡大字梶


 県道善夫東大沼の本座峠にある堀割の北側を登って行く。昼なお暗い鬱蒼とした場所に階段を上る。
 ますます薄暗くなって行くころにふと見上げると突然不気味なほどの岩に出くわす。高さは4mで恐ろしい迫力である。
 自然石。これが三つ四つあって、いずれも天空に向かってそびえるように立っている。


 
岩の周囲には石積みが一段巡らせてある。昔、県道はもっと今より高かったので、直接県道に繋がっていた。

 地元の方の説明にこんな解説があった。
 「ここの字名は『大畑』。東大沼の字名は『石田』。昔は両村で祀りをした。」とのこと。
 また、「昔、岩の東隣には”熊野神社”があった。そこより東に下った谷に『不動さん』があるが、・・・・、これはその昔大雨のドシャ降りの時に土砂に埋まってしまい、以来、村に悪いことが続いた。・・・・・。通りがかりの夫婦が殺されたり、通行人を誘って博打をしていた男が殺されたりもした。
 そこで、この不動さんを掘り出して元通りにしてからは悪事も絶えた。」とのこと。
 
    今町の岩神
 矢作川の河岸段丘上にある畑の中に、南北に20m程離れて岩が二つある。

 この岩は「岩神さん」と呼ばれ、「両方お参りすれば小宝に恵まれる」と説明を受けた。
   金精さま   足助町則定大字舟渡(ふなと)


 明治30年に「穂積橋」が造設されるまでは、ここは渡船場であったそうな。

 明治26年ここの渡船場を利用してのルートが足助街道になるまでは、則定小学校の東側を南北に街道が通っていた。

 その渡船場は、今の穂積橋より上流100m程の所にあったという。
 高さ60p程の石で、地元は「金精さま」と呼んでいる。
 さて、「金精さま」だが、それは「薬師堂」の北側に鎮座している。
 「薬師堂」は、足助街道と巴川の間にあり、10畳敷きほどのお堂の中に「薬師如来碑」と、永禄4年(1561)と彫られた墓石がある。
 薬師堂は、戦国時代以前からあったと言うが、武田軍に焼かれて昭和10年に再建されたという。
 ☆ 当時の世相が覗いてみたくなった ☆     
1560 正親町 足利義輝 永禄 3 桶狭間の戦い。広瀬城 広瀬城、松平元康は織田信長に属する広瀬、梅ケ坪、挙母の諸城を攻め、2/20広瀬城落城、高清は一族とともに死す。『松平記』  5/19桶狭間(名古屋市東南部から豊明市西部一帯)の戦い。織田信長、本隊2千余名の奇襲戦法により西進する2千8百の大軍今川義元を倒す。松平元康(後の家康19才)、その日の早朝、今川軍の先陣として三河衆を率い、大高城(名古屋市緑区)に兵糧を入れ、織田方の鷲津・丸根両砦を攻め落とす。信長は、南下して桶狭間に待機中の今川軍本陣を側面から急襲し義元を討ち取る。今川勢総崩れで西三河から撤退。元康、10年ぶりに岡崎城へ帰る。
1561 永禄 4 信長の功績@兵・農分離により、いつでも戦い可能・農産物は増収A身分・家柄に拘らず実力を重視。秀吉・光秀ら。 元康、刈谷の水野元信の仲介により、信長と和睦。幡豆郡の西条(西尾)城代牧野氏を逐い、東条(幡豆郡吉良町)の吉良氏を降伏させる。信長は、加茂郡に侵入し矢作川以西の西部を支配下に治めた。尾張側に属したこの地域は、三河から切り離されて高橋郡と呼ばれるようになった。(この地は、鎌倉期から中条氏が地頭を務めた高橋荘があった。)  衣城(七州城)、佐久間信盛の支配となる。=中条常隆、織田氏により敗走。   長尾景虎、関東管領となり上杉氏を嗣ぐ。   川中島の戦い。
1562 永禄 5 清洲同盟 1/15織田信長、松平元康と清洲で盟約を結ぶ(清洲同盟)。元康、今川氏とは断交。合戦後、三河における今川勢力が駆逐されると両者による領国支配は決定的となった。2/信長、尾張鋳物師水野太郎左右衛門に特権を与え、他国からの鉄製品移入を禁止。
1563 永禄 6 家康ほぼ三河を統一 9 三河三か寺(安城市野寺の本證寺、佐佐木の上宮寺、針崎の勝鬘寺)を中心に三河一向一揆おこる。   7織田信長、居城を清洲から小牧山城へ移す。この年家康ほぼ三河を統一する。寺部城:寺部町1丁目、在地の小豪族鈴木氏は、ある時は自立し、ある時は織田・松平に属して保身を図っていたが、この年松平元康に攻められた。『東照軍鑑』この時、信光寺(豊田市)も加担し針崎にて合戦。家康のとがめを恐れて信州へ逃れたが家康の祖先松平家の由緒の寺であるとのことで、許されて無事であった。
1564 永禄 7 三河一向一揆 2三河一向一揆、家康と和睦。後家康、三河本願寺勢力の中心寺院を破壊する。足助の鈴木氏(足助7城築く)松平勢の猛攻にあい元康(家康)の配下に属す。滝脇松平氏三代乗高、この時軍功あり。御船城、秋尾三の乱に賊の為に城郭は焼かれ城主三宅義高は死す。『千鳥寺旧記』より。=御船、亀首、加納の荘園を領す。『猿投村誌:大正4年西加茂郡教育会』より。 

    編笠石 東加茂郡大字野原(のわら)


 野原川の支流を東へ上がった沢の中にある。この石の中央や上部に水平な白色の貫入があって、鉢巻き状に見える。上方にしめ縄があり、石を全体に屋根が覆っている。

 別名「子宝石」とも言われるそうだ。


 
昔、野原の里の「常楽寺」へこの石を運んだところ、夜毎、石が泣き続けるために、また、元のこの場所に戻されたという。下流約10mに陰石と思われる石もあり、遠くの「常楽寺」へ運ばれたときに夜毎泣いた理由がしみじみわかる気がする。・・・と筆者は現地から説明を聞いている。

 子宝に恵まれない女性もこの石を一度さすればたちどころに懐妊するという。夫婦そろって石をなぜれば一家円満疑いなしだそうだ。
  
   (さい)の神  東加茂郡大字大林 


 
この石は集落のはずれにある。道祖神ともいい、「サエの神」とも言う。

 三本の中の右の石は別に大写ししてある。




 
左は陽石。高さは52p。

 中央の祠には「文化十二年四月鈴木善蔵」と彫られている。注:1815年である。


(道路拡張により近々移転される予定である)
1811 光格 文化 8 5.14 尼妙道 伊能忠敬、九久平に泊<市郷土資料館だより>より 2/一宮地方で、綛糸(かせいと)仲買株設置反対運動。3/測量家伊能忠敬一行、名古屋から飯田街道筋を通り四郷村から南下して挙母城下を訪れた。この時四郷村で泊。村々で、机や燭台を用意させ、村人に寝ずの番をさせるなど受入に気を配った。(菅原家文書「測量御用ニ付書物控」文化8年3月)。=この時、九久平村家数89軒内33軒本村、21軒柳郷字菅沼・11軒同山中・24軒同鵜ヶ瀬。その後、「中垣内五七衛門方御泊り、又、九久平村・伴蔵方御宿也、(中垣内で休息し、九久平で宿泊)」。九久平は、馬4疋、人足8人を出して協力。一行はその後足助方面に向かう。5/28大雨洪水(岡崎市史)。    6/ロシア艦長ゴローウニン、国後島で捕らえられる。平田篤胤「古道大意」。式亭三馬「浮世床」。江戸大火。 佐久間象山(1811〜1864)生まれる。〈吉田松陰の師〉
1815 光格 文化 12 5月阿蘇山噴火。 5/26洪水(水量1丈4尺余)。破堤288間・水門破損。人家浸水。田畑水腐(藩史)。6/7矢作川堤、新村から高落にかけて決壊(西尾市史)。  杉田玄白「蘭学事始」成る。   この年、新城の田中春庵、京都の小森玄良塾(蘭学)に三河最初の門人として入門。
1816 文化 13 明治用水開発に着手   畿内・東海風雨・洪水 7/31〜8/4大雨・洪水。挙母村破堤(郡誌)。その他各所にて破堤(西尾市史)。  10/信州中馬が三河馬稼の駄賃荷制限を要求し、津具村などで紛争がおきる。11/吉田魚町魚問屋、領内の独占権得る。12/都築弥厚(弥四郎)明治用水開発に着手(明治用水百年史)。  2/武家屋敷内の賭博勝負禁止令の厳守命じる。4〜8月江戸疫病発生。

  石楠町のおぶの石  豊田市  


 
「おへんびさん」は、市道沿いにある。昔、白蛇をこの岩の下に追いやり、岩の隙間に泥で閉じこめてしまったというものだ。

 その岩にいまでも花を供えてお参りされている。


 地元では「おぶの石」と呼ぶが、実は「産(うぶ)の神」のことだ。高さ53pの「おぶの石」は、安産・生産・豊作の神と言われる。
集落のはずれにあると言うことは、「道祖神」・「塞
(さえ)の神」としての役割もあるのだろう。
 石楠
(せきなん)町は「所石(ところいし)」と「大楠(おおぐす)」が合併して一つの町名になったものだが、この神は旧所石の東の端にある(道路工事で、従前の場所から移動されている)。

   坂上町字重石の岩  豊田市坂上町

 ここは大滝渓谷を上り詰めたところにある。この岩山の麓に「山荘大滝」と言う料理屋がある。
(場所は、上記の「オブの石」を参照願いたい。)
 地名のごとく、多くの岩が重なっていて、頂上には石で囲うように造った簡素な祠がある。

 注:
尚、市道の峠付近(料理屋さんの上)から見える祠は、最近、料理屋さんの造られたものである。







 
ここの客席に使用している巨石の下は洞窟状になっていて、中から縄文土器が出てきた。





 
   参考文献:「愛知発 巨石信仰」 愛知磐座研究会 中根洋治 著 平成14年発行

      上記の文献には、実に多くの踏査報告があるが、
          当管理人の住まいする付近に存在する部分のみを抜粋して引用させて頂いている。
             

                                Link 
 巨石信仰の史跡を訪ねるー7:動石・その他の岩   
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